「じゃあ、いったいなんでそんなにバッハが好きなんだよ?」という問いは、じつはいままで立てたことがなかった。
さて、私が「山を好きな理由」はさんざん解析し尽くしたから即答できる。デカいのはつぎの3つ。
1.自然のなかで、樹木や花や鳥の声によって → 至福のよろこびに浸れる。
2.見晴らしがよく、ひとがいないところでひなたぼっこをすると → 陽の光がまるで愛情のシャワーのように感じられる。
3.登りと下りの適度な運動 → 自分の身体をリズミカルに動かせることに愉悦を覚える。
細けえ話をひろってったら、たぶんもっとぎょーさん出てくる。一山ずつの魅力とか挙げると、ねえ、300ぐらいイケまっせ。
つぎ。
ほんなら、バッハはどないだ?
い、いや、まだ考えたことがなくってねえ。え? なんでだろ?
数回まえのピアノレッスンだったかね、先生が「モーツァルトのこのソナタ、す べ て の 音 が(←めっちゃ強調)、非の打ちどころがないほどうつくしいじゃありませんか」とおっしゃる。
▼モーツァルト:ソナタK332 へ長調第1楽章
うん、そうだね、うつくしいね、と私はよく考えずにそう思っていた。だってモーツァルトだもんね。
ところが先生はこう畳みかける。「本当にうつくしいと思って弾いていますか?」
うわっ、そういう質問をされるということは、つまり「本当はうつくしいと感じていないでしょう。その気もちはまったく伝わってきませんよ。美を感じていないのに、それを表現できるわけないでしょう?」って意味でございますね。
▼バッハ:フランス組曲第6番アルマンド
バッハはどの曲も底が抜けたように楽しいのだが、このアルマンドは正気でいられないほど度はずれて大好きで、そう、例のケツで拍子刻んで際限なく弾いてしまう曲のひとつね。これ、つい毎日弾いちゃうよ。舐めまわしたいくらい。
そういえば、この曲をレッスンで弾いたとき、先生は冒頭について「悪くないです」との評だった。そりゃねえ、いいも悪いも、あたしゃこのさいしょ4小節が悶絶するほど好きで、毎日ここだけ百回弾きたい。
んで、あらためて、上のモーツァルトと下のバッハ、はじめの4小節をくらべたら、う……、そ、そうか、要するに「熱量のちがい」なんだなあとようやくわかった。
そのー、バッハは、とくに私は「タカタカ系」が異様に好きで、そうだなあ、「バッハ特有の音型」が問答無用で快感だし、加えて「指を動かす愉悦」も味わえるんだよね。聴くのも弾くのも楽しくてしゃーないから、何十回でもやりたくなる。
対してモーツァルトは、ふう、「うまく弾けるかどうか、ちゃんと練習しないと」モードで弾いてるなあ。そういう「努力」で練習している。
そうか、そういうことだったのか。
バッハにはなんぼでも無尽蔵にガソリン注げるんだけど、モーツァルトはちがった。たぶんモーツァルトに注ぎ込める燃料ってほとんどないわ。
モーツァルト、アタマで弾いてるわ。バッハはケツで弾いてる。勝手にケツ振らずにいられないほど、バッハは好き。
要するに、モーツァルトのうつくしさに「私は」それほど感動しないんだよね。それはしょうがない。心動かされるかどうかは、自分でも制御できない。
モーツァルトが大好きなひとは、きっとこのソナタ冒頭だけでも「毎日百回弾きたい!」って思うんだろね。へええ。私はちっともそんな気起こらん。どう考えてもバッハのほうが楽しすぎる。そうとしか聞こえない。バッハのほうがええに決まっとるやろっ?!
という「私の感じかたがオカしいんです。バッハにしか反応しない脳ミソなんです。どっか故障してます」ってことを、いずれ先生にちゃんとお話しないとねえ。
結局、去年から「本来の自分ってなに?」ってとこを掘りまくってきたけど、あらら、本来の自分ってじつはこんなにもバッハが好きなんだ、これが自分でーすとわかったよ。