なんでもかんでも、元をたどれば「親」になっちまってげんなりしている。こうなると「いまの私」というのは、大半「親が作ってくれた」わけで、なんか自分のオリジナル部分ってほとんどないような印象だ。
もちろん、「ふつうのひとたち」はそうじゃない。ふつうは反抗期のときに親から離れて、ちゃんと「本来の自分」を意識して生きるようになるのだろう。そうしたうえで職業やパートナーを選んで、自分独自の生きかたをごく当たり前に実現しているのだ。
私が、そういう「ふつう」になれなかったのはどうしてか?
このごろよく思うけど、「弱い」というのが理由じゃないだろうか。
私はとても弱いのだ。
その「弱さ、もろさ」があるからこそ、親にしがみついていたのだと思う。本気で反抗して、親から離れる勇気なんてさらさらなかったんだ。親を恨んでいるなんてキャンキャン吠えているけど、仮にもし、親が「いい子だね」っつってアタマなでてくれたら、たちまちすり寄ってゴロニャンとなるはずだ。
そりゃもう、親がさんさんと愛情を「わかりやすく降り注いで」くれたら、そうだねえ、べつにほかのなにかはいらないかもしれない。
前にも書いたけど、平準司さん(神戸メンタルサービス代表、根本裕幸さんのお師匠さん)がYouTubeでこう話していた。
あなたが大好きなものを、30個あげてください。
そのなかに「ひと」は何人いましたか?
「ひと以外のもの」は、すべてあなたにとっての「なぐさみ」なんです。
要は、あなたがなにかを失ったときの「なぐさみ」なんですよ。
――【怪しい世界⁉】(マニア向け)YOUも楽になっちゃいなよ!~平準司の『ペルソナを超えて』
これ、よく思い出すなあ。(爆笑とともにw)
するとさあ、私がいくらバッハを好きでも、ああ「なぐさみ」なんだなってガックリする。
私がガキのとき、親が「私の望んでいるカタチで愛してくれなかった」という憂さ晴らしのために、バッハ好きなのかねえって。
ピアノもなぐさみだよねえ。
山も、最大のなぐさみだよねえ。
山でひなたぼっこなんかしちまったら、お日さんに照らされてるのが「愛されている」とまで誤解して、そこまで捏造せんとあかんほど、そうだ、私は寂しいのだ。寂しいし、弱いのだ。人並みになんか働けないのだ。
まあ、それでいいかもと思いはじめた。いまさら強くなれへんわ。キャパがちっせえのが私なんよ。なので、これから自分の身辺を「私に見合うサイズ」にちょっとずつ縮小していきたい。これまで手を広げすぎてたんだよ。だから、いましんどいんだよ。
さいわいすでに、大学進学はやめた。アレは「見栄張りたい」ってのがほんとの気もちだとわかったので、やめた。今日はあらたに「カウンセラーになる」のも、やめることにした。アレも、ほんとにやりたいことじゃないとわかってきたから、やめる。
ふう、だいぶんちっちゃくなってきた。お手頃サイズに近づいた。
いっちゃんやめたいのはパートだけど、これやめるとゼニが入ってこねえからしゃーない。つづける。
いろいろ「なりたいモノ」に「なれなくなった」が、将来ほぼ確実に「なれるモノ」がある。
それは「年金受給者」である。もしあと6年生き延びられたら、きっと「年金受給者」にはなれるはずだ。無職でぶらぶらパラダイス。
そうか、私が今生なりたかったモンって結局「年金受給者」だったのか、と感慨深い。弱くても生きられる制度をちゃんと用意してくれたんだね。ありがとう。
ならば、せめてそれまでに「なぐさみ」以外のなにかを探そうじゃないか。