気がついたら、いつの間にか「新しい世界」へ迎え入れられていた。
はあ、ココはなんだ? まったくはじめての世界だぞ。
が、しだいにこの新世界のルールがわかってきた。
まず「あげなくていい」ということ。
「なにかあげなくちゃ!」「なにかやらなくちゃ!」「なにか役に立たなきゃ!」とか、そんなんいっさいいらんねん。
「そこにいるだけ」でええねん。
「そこに存在するだけ」でええねん。
「そこに、ひとのかたちをして、ぼーっとしてるだけ」でええねん。
そしてさらに「なにかもらわなくていい」。
「すごい」とか「いいひとだね」とか言ってもらわなくていい。
「すごい」ってほんますごいことばで、どうして「す・ご・い」と聞こえる音が欲しいんだか。
「す・ご・い」という空気の振動を、なんであんなに欲しかったのかナゾなんだが、まあそんなんもいらない。
結局、新世界では「なにかあげる必要もないし、なにかもらう必要もない」。
旧世界では「〇〇あげるから、おまえは△△寄こせよ」とか「あんたから××もらって居心地わりいから、※※で返しとくわ」とか、物々交換ばっかしやってたんだが、そっかー、それやらないでいい世界があったんだねえ。
てなことがわかってくると、そしたら、わりとすんなり「べつに『ひと』じゃなくてもいいかも」と思えた。
あのう、時計でもいいかな。壁紙でもええかもしれん。どっしり文鎮とかもよさそうだ。
人間やめて物体になっても、いまとあんまり変わらんような気がしてきた。
その先を考えると、まあたとえば「ホコリ」ぐらいでも同じかねえ?
けれども、いま現在たまたま「ひとのかたち」をしているのはなぜだろうか?
それは、だな。
「『ひとの存在』に感嘆してみたい」から、とりあえず数十年ほど「ひとのかたち」をしてみたんじゃなかろうか?
いまごろ気がついたのだが、「他人」って「自分とはまったくちがう考えかた」をするんだねえって感嘆している。
と同時に、「他人」って「自分とまったくおなじこと」で感動するんだねえ、とも思う。
ひとりひとりがぜんぜんべつべつでちがうのに、まったくおなじこともある。わかったりわからなかったりで火花が散る。
そういうのを「観賞」したかったのかなあ。おもしろいなあと眺めたかったのかなあ。
カウンセリング・セッションを受けたあと、なんか現実世界が遠のくような感じを覚えることがある。
よく思うのは「大きな建物の中二階から、一階を見下ろしているみたいな感じ」。天井が低くうす暗い中二階から、一階の「現世」でうごめくおおぜいのひとを眺めるような感覚だ。
そのまま二階以上に上っていってもいいんだけどねえ。そっちのほうがラクそうではある。
でも、今生は一階に降りて来ちゃったよ。ふう。
あともうしばらくは「ひとのかたち」でじーっとしとく。
とくになにもしない。
「観賞」するだけ。
河川敷に座り込んで、遠くの山の稜線を眺めているかのように。