晴れて無職になったのに、毎日けっこう忙しい。
まあ、ピアノにハマッたからだいたい弾いている。でも、連続で弾けるのは20分が限度。いろいろ試したが、このぐらいでいったん休憩を入れたほうが、一日トータルで長くもつ。
しかしこの休憩がいかんのだよね。ついダラダラとYouTubeとかピアノブログとかアマゾンとかでつぶれてしまう。
で、たまーに有用な情報も見つかるもんだから、ほら、ネットを見るのはいいことだ、延々見ているからこそ得られるものがあるなんて理由をつけて、またダラダラさまよってしまう。
ピアノの練習時間は分単位で計っているが、ネットの時間は怖くて計れない。たぶんピアノの2倍は見ていると思う。うげえ。
かつて引きこもりだったときは、ピアノをやっていなかったからもっと不毛な毎日だった。
そのころは「ちゃんとした人生にするためには、やっぱりちゃんとした仕事につかないとダメだ」と思い込んでいた。
なにかのことでベテランにならないと。
なにかで自分の才能を活かさないと。
なにか……、なにかを見つけて一発逆転しないと。
べつに山だけ登っていてもよかったのに、でも「なにか」をずっと探していた。
このままブラブラしているのはよくないことだ。
そうじゃなくて、「なにか」をやらなきゃ。
でも、かりにもし「なにか」が見つかったとして、じゃあそれでどうなるつもりだったんだ?
いや、それはきっと「ブラブラ」よりいい状態が欲しかったんだろ?
つまり「ブラブラ」より「しあわせ」になりたかったんだろ?
しかし、その「しあわせ」って具体的にどんな「しあわせ」なんだろうか?
むかしを思い出してみたけれど、そういえば「どういうしあわせ」が欲しいのか?ってぜんぜん考えていなかった。
そもそも「自分が、どういう状態をしあわせと感じるのか?」ということをわかっていなかったねえ。
これまでで、いっちゃんしあわせだったのはいつ?
うん、とりあえず白山(はくさん)でもいいかな。正確には白山の南にある別山(べっさん)の頂上か。いい眺めで2時間ぐらいぼーっとしてたか。
テントを持参しての山行は、それが最後だった。
どうしてそういうむずかしめの登山をやめたのか?というと、親の介護でゴタゴタしはじめたからだ。
ついでに、親との関係も見直さないといけなくなった。だから、心理学に関わりはじめた。
ちょうどそのころ、音楽も気になってきた。またピアノを弾いてみたいと思った。しかし、ピアノはお金にならない。仕事には直結しないから、ピアノは「なにか」じゃないと切り捨ててしまった。
なので、ずーっと「仕事がー、うまくいかねー」となげきながら、心理学セミナーに通ってベソベソ泣いていた。
18才のときから悩みつづけていた「なにか問題」は、結局「それ、仕事をしたいわけじゃないよね」とわかった。
私は、どういうことでしあわせを感じるのだろう?
山のなかでたしかにしあわせになれるけれど、ほんのわずかだけ誤差がある。もうほんと1ミリぐらいのちがいだ。でも、僅差で足りない。
なにが足りないんだろう?
ツェルニーを丹念に練習しはじめてから、わりと速めに弾けるようになってきた。今日無謀だが、あるCDに合わせてちょっと弾いてみた。くずれながらもたまについていける部分もあった。
おお、こんなことは生まれてはじめてだ!
この私に、なにか速くできることって、まったくもってはじめてだよっ!
白山から下山したとき、あまりにも足が遅くて、最終バスに間に合わなかった。しょうがないので、バス停脇で野宿して一夜を明かした。
そう、私はなにをやっても遅い。登りも遅いし下りすらふつうに降りて来られない。
そのまま「すべてが遅いだけの人生」でもかまわないのか?
いやあ、それはやっぱりつまんないな。
そんな猛スピードが欲しいわけじゃないけど、なんかこう要所要所でスパッ!とキレがあるとすごくうれしい。そういうピアノを弾きたい。
それがいま、信じられないことにほんのちょっと手に宿りつつあるのだ。
うわっ、これ、めっちゃ欲しかったわ。
ウソみたいやけど、そうそう、ひゅんって逆上がりできるようになってみたかってん。
で、山で足りなかったのはなんなん?っていうと、この「ひゅん」だとわかった。
ちまちま練習して「ひゅん」ができるようになりたかったんだよ。
「ひゅん」ってスケールを弾いたり、「ひゅん」ってアルペジオをバラしたり、その音がふわって響くのがめちゃくそうれしい。
そっかー、私は「ひゅん」にあこがれていたんだなとようやくわかった。
「ひゅん」にしあわせを感じるんだ。
「ひゅん」とか「うんと小さい音」とか「うねうね強弱」とか「ビロードみたいなレガート」「じわっと消える音」「枯れた音」「つまびくような音」、出るとうれしい音はたくさんある。
そういうのを集めてみたいんだよね。