このところしばらく「ああ、なんかいいことばかり起こるなあ、楽しいなあ、しあわせだなあ」と思っており、それはきっとツェルニーさんのおかげだと信じていたのだが、ちがった。
2ヵ月前にパートを辞めたからしあわせなんだと気がついた。
「ゆとり」がもたらすしあわせなんだよね。
たっぷりと有り余る時間が、私をしあわせにしてくれる。
ということは、パートでもらっていたゼニって、私を不幸にしていたわけだ。びっくり仰天。
なんかさあ、とりあえず収入があると気安く買い物しちゃってたんだよね。ネット見るとついポチポチ。アマゾンでも本をポチ。キンドルなんて場所もいらないし。図書館にある本でも、借りて返すのがメンドーでポチ。だのに買っても読まない。
今日、クレジットカードの明細を過去にさかのぼって見てみたけど、いやあ、本当に必要なモノってほとんどなくてガックリした。ムダなものは衣料品が多いな。靴下や下着が安いものだからつい。
これ、やっぱりストレス解消のつもりなんだよね。パート行っているとずっとしんどくて、なにか気晴らしが欲しくなって、つい買ってしまう。
しかし、その買い物でじっさいにしんどさはちっともなくならない。「欲しいな→ポチ」の一瞬に、いったいなにを期待していたんだろう? 痛み止めの注射のほうがまだ効き目が持続するよ。
でも、パートで絶望するほどしんどかったとき、それをやわらげてくれたのはピアノだと思ってたんよ。ピアノがストレス解消になっているはずと思っていた。
なので、妹にも話したことがあるんだけど、「イヤな仕事があるからピアノやってるのかな? じゃあ、働かなかったらピアノのやる気失せるかも。私にとってピアノはその程度だったらどうしよう?」などとウダウダこぼしたりしていた。
けれども、じっさいにパートを4月上旬に辞めてみたら、ちょうどその4月下旬にツェルニーの炎が点いて、あっという間に燃えさかってしまった。
これってもしかして、パート辞めたおかげですごくゆとりができて、そのゆったりした気分のなかから、「うん、そうだ、これまでの考えかたをあらためて、今後はしっかり練習曲をやろうじゃないか!」という発想が湧いてきたのかもしれない。
もちろん、ほんとに時間があるので好きなだけたっぷり練習もできる。日中にグランドピアノをちんたら弾いていられる。
そして、ごくわずかながら上達していっている。
「上達」だなんてねえ、こんなの、いまかろうじて59才だからそんなタワゴトほざいてられるんだよね。
一年後も変わらず心身ともにまともかどうか? ほんまわからんよね。
だからこそ、もうパートを辞めて正解だったんだな。
これをついうっかり「来春の年金繰上げ受給まではパートつづけよう」なんてカン違いしていたら、あとでエラく後悔したかもしれない。
もしかしたら、ツェルニーの重要性も気づかなかったかもね。そいで、これまでの自己流判断で「おかしいな、練習してもウマくならない、指が動かない、トシのせいだ」とブツブツ文句垂れながら一生終わっていたかもしれない。
あらかた散財してしまうゼニよりも、ピアノがマシになるほうがずっと大切だった。
「老後」ってちっとも考えられない。それ、なんだろう?
私のドタマにあるのは、来年のピアノの発表会だけだ。
それまでのあいだ、毎週レッスンで「授かって」くる。それを持って帰って、毎日ていねいにせっせと磨く。
いまはツェルニーとの出会いに夢中だけど、きっとたぶんこれからも「お宝」にめぐりあえるだろうから、そのときに備えて日々磨くだけである。