そういえば、つまりツェルニーも「雷」ですな。「練習曲」という雷が落ちてきたのだ。
私は「落雷型」なので、たいてい「雷に打たれたように」ひじょうにわかりやすく転機がおとずれる。
山登りのときは、稲荷山(いなりやま/標高233m/京都府)で、そのときは稲荷神社をちょっとのぞくだけのつもりが、なぜか段々を登りはじめて、とちゅうの「四ッ辻」という見晴らし台で直撃を食らった。1996年9月22日、34才のときである。
その「四ッ辻」は京都市内を一望できて気もちのよい場所だ。でもなあ、ふつうのひとはそんなところで「雷に打たれたように」山にハマらねえよな。けど、あたしゃ猛烈に感激いたしましてな。
以来、延べ600山ほど登ってきたから、やっぱりあの稲荷山の一撃はたいしたもんだ。
舞踏家でもある飯田茂実が「世界は蜜でみたされる」という本を書いている。サブタイトルが「一行物語集」とあり、ミニマムで寓意に富んだ物語がつづられている。
そのうちのひとつ。
神様! と八百屋が叫ぶと、天井を突き破って大根が落ちてきた。
ああ、そうだよね、神様はそのひとにふさわしいモノをちゃんと授けてくれるんだよねと妙に納得できる物語だ。シュールでユーモラス。
私の場合は、稲荷山という全道コンクリで固められた鳥居だらけの低山だったり、ツェルニー練習曲だったりで、へえ、ほう、これが「はじまり」なんだと、大根にあっけに取られている八百屋のように、私はいま、ツェルニーの楽譜をながめている。
「雷」のあとは「祭り」がはじまるのである。みこしを担いで練り歩くよりほかしょうがない。ほら、勝手に手が足が動き出す。止められない。
「踊りたくなるモノ」は「イケる」んだよ。
以前、あるパート先の上司は、仕事が好調だと踊り出した。ホンマに踊るんですよ。いかに仕事が好きであっても、なかなかねえ、踊るところまではねえ。
しかし、その上司は「みなのもの、喜びの舞を舞うのじゃ」と言うなりイスから立ち上がり、両手をかまえ、腰を落とし、スリ足で一歩一歩踏み出し、部屋をぐるりと練り歩いた。
いやでも、うれしくてしょうがないときは、それがごく自然でもある。
ある山頂で、たまたま居合わせたひとたちと踊り出したこともあった。妙高山(みょうこうさん/標高2,454m/新潟県)のてっぺんですな。
てんでばらばらに到着した十人ぐらい、みんな山が大好きで、山の話でゲラゲラ笑っていたら、とつぜんひとりが奇声を上げて踊りはじめ、そしたらだれもが立ち上がってやにわに踊り出した。うん、もう全員オカしくなっていた。小広い山頂を大笑いしながらみんなでぐるぐる回った。
ねえ、こんなに楽しいモノがあってよかったね。
だれにでも、そんなモノがあるんだよね。踊らずにいられないほど、笑いが止まらないほど、おもしろいモノがあるんだよね。
私、ソレ、2発目ももらってええんかいな?
とりあえず「落ちてきた」のはツェルニーだが、これは「はじまり」だからね。この先、踊りつづけていたら、たぶんきっと「いろいろ」また降ってくるんだと思う。
山では、深田久弥(『日本百名山』の著者)のいうとおり、「百の頂に百の喜びあり」を確信できた。ほんと、どの頂上でも踊れまっせ。ただし、晴れてたら。
ピアノねえ、じつはそれ相応の「喜び」の予感がしている。はは。
モーツァルトソナタとかもけっこう「イケそう」なのである。うはは。
ピアノでも「百の曲に百の喜びあり」をぜひ味わいたいのう。ただし、ほどほどに弾けたらだよね。そうか、お天気みたいなモンなんだな、どのくらい弾けるかなんて。
私は、ピアノで「踊れたらいい」わけで、思わず踊り出したくなるていどに弾ければ、それでいい。そこらへんやわ。
〔これからの人生の目標〕 まるで踊るようにピアノを弾くこと。(注:極力ケツは振らない)