父が亡くなって一年

昨日は父の一周忌でした。生前の父の希望でお通夜もお葬式もなく、そして遺体は医大へ献体しました。亡くなったときの行事はなんにもありませんでした。で、一年後もやはりなんにもなしです。

妹にメールをしようかなとちょっと思いましたが、彼女はとても忙しくしているので、メールを出すのもはばかられます。母はもう83才ですがいちおう健在。けれどもいろいろあって電話もしない間柄ですし、父とは不仲でしたからとくに感慨もないでしょう。

父は偏屈なひとでしたから、こういう一周忌になってしまいました。でも、父本人は「そんなもん、どうでもええんじゃ」と言いそうです。

昨日の朝は、4時45分に目が覚めました。寝たのは1時半でしたから3時間ちょっとしか眠れていない。いつもは10時ごろまで寝られるのになあ。ふとんの中でもぞもぞしていましたが、いっこうに眠くならない。なぜだろう?

そのときふと父の命日であることを思い出して、ああ、そうか、父ちゃんにたたき起こされたのかなと思いました。父はたいていいつものらりくらりボサーッとしていましたが、ごくまれに一時的にバタバタするときがありました。なんかミョーなスイッチがたまに入るようで、そのときは口数も多くなりセカセカしています。

ちょうど一周忌ということで、きっとスイッチONだったんでしょう。ふふ、起こされちゃったよ~と私は無性にうれしくなりました。

私の好きなカウンセラー先生がご自身のブログで、よく次のような問いかけをされています。「親の愛は、ときには非常にわかりにくい場合があります。あなたの親はどんな風にあなたを愛してくれましたか?」

父は育った環境がいびつだったので、愛情表現ができないひとでした。ふつうのお父さんらしいことはできないのです。でも、いま思えば「愛情表現ができない」だけで、「愛情」はたっぷりあるひとでした。あるんだけど、それをコドモや妻に表現することができない。伝え方がわからない。ですから一見すると愛情がうすいと誤解されやすいひとでした。

そのことを、父が元気だったころにもっと早く気付いていたらよかったなあと思います。父の愛情に対して「ありがとう」ともっとすなおに感謝できたらよかったなあ。でもまあ、そのことをもし面を向かって話したとしても、たぶん父にはちゃんと伝わらないでしょうけど。あのひと、会話ができないひとだったんでね。もしもだったら手紙がよかったでしょうね。

几帳面な父らしく、3月31日というたいへん区切りのいい日に亡くなってくれました。おかげで忘れることはありません。そして新たな気もちで4月を迎えられます。父もパソコンやネットが大好きでした。それをしっかり私が受け継ぎましたので、これからもネットの勉強を続けようと思います。

でも、これまた父譲りでものすごくスローペースなんですよね。父自身は、自分ののんびりさ加減をまったく気にしていませんでした。そうそう、悩まないほうがいいですよね。私は自分のユルユルペースをひとと比べて長年とても気にしていました。けれども、コレは変えられないよなあとやっと悟りつつあります。遅くてもいいからとにかく続けることが大事かもしれません。そうすれば、いちばん父に喜んでもらえそうな気がします。

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