ヒトのハナシの腰を折って、強引に自分が長々としゃべりつづけるヤツのことを「会話泥棒」という。
で、じつは私自身が「会話泥棒」の張本人である。
私の母は非常に自己肯定感が低かったので、「いいヒト」ぶってヒトからホメられることに命がけだった。
なので、だれかと会話するときは、聞き役に徹することで「いいヒト」を演じていた。母の目標は、自分はいっさいしゃべらずひたすら相手をヨイショすることであり、その結果「アナタはいいひとねえ」と言われることをゴールにしていた。
そんなことをしていたら、当然疲れ果てるわけで、母はウチに帰ってくると、その相手がしゃべってばかりでどれほどバカでくだらないヤツかということを、激怒して私に延々とグチをこぼしつづけていた。
私は親離れができないヘタレだったので、そういう母のグチを40年ほど聞きつづけていた。そのため、「相手が話している時間」と「自分が話している時間」の配分にものすごく敏感になってしまった。そして「自分の話をするヤツ」はくだらないヤツだと思い込んでしまった。
私も母とおなじく、だれかと話すときはつい聞き役にまわってしまう。聞き役はしゃべるヒトより「高級なニンゲン」だという認識があるからだ。
一所懸命適切なあいづちも打つし、できるだけ会話の内容にも集中する。相手のヒトはずっとしゃべりつづけている。数十分シンボウしてようやく解放されると、ぐったりするほど疲れている。
しかしながら、急に気がついたことがある。私はいちおうカタチだけは聞き役に徹しているけれど、相手のヒトはホントに快適なんだろうか?
いや、ヒトのことをあなどってはいけない。相手は「私がホントは見下している」ということをわかっているんじゃないか?
たぶんそうなんだと思う。私が表面的にはニコニコして見せていても、きっと潜在意識を通して「コイツはバカにしているな」と感づかれているだろう。
じゃあ、そもそもなにがまちがっていたかというと、私はホンネでは自分がしゃべりたいのに、それをかくして、聞き役の演技をしていたことがまちがっていたのだ。
私の本性は、相手のハナシを奪ってでもしゃべりたおしたい「会話泥棒」なのに、それを押し殺してムリをしているから、相手をウラんで、内心「コイツはバカだ」と思うことで復讐していたのだ。
で、これからはもう演技をやめることにした。
ちょうど新しい会社に入ったことだし、さいしょからキッチリ自分のホンネを出して、周りのヒトと付き合うことにした。
私の本質は「しゃべり」なんだから、言いたいコトがあったらじゅうぶんしゃべることにした。
だから、新人のクセにあーだこーだけっこうしゃべっている。相手の説明が不十分だったりしたら、ネチネチつっこんで質問したりする。
しかし意外なことに、いまのところ問題はなさそうだ。
それはたぶん、私自身がガマンしないようにしているので、なんかストレスがかからなくて、基本的にヘラヘラしていられるからだと思う。
言いたいコトを言わずにガマンすると、ホレ、必ず相手をウラむじゃん? 鬱屈するじゃん? 陰湿になるじゃん?
そうならないよう、自分がキゲンよくしていられるように気をつけている。
そして、だれかと向き合うときは、できるだけ「このヒトと私が、ともにハッピーになれる着地点はどこかなあ?」と考えるようにしている。カウンセラー先生に教わった方法だ。
余裕があれば、「このヒトにも、あの二上山みたいなしあわせが訪れるいいなあ」と思ってみる。
どうかすると、まだまだ「以前の自分」がすぐに出てきて、ガマンしたりひねくれたりやっちまうけど、まあ気がついたらなるべくやめるようにもっていっている。
演技はぜんぶヤメじゃ。素の自分をさらけ出して、それでキラわれたらそれまでだし、でもきっと好いてくれるミョーなヒトもおるだろうから、このまんまでいこう。
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