仕事はだな、一日あたり0.1ミリずつ成長しているような気がする。
退化はしとらんよ、たぶん。なにせみなさんが手取り足取り教えてくれるんで、ごくわずかずつ進化している。
いやあ、ありがたいねえ。なにをたずねてもていねいに指導してもらえるって、こんなに安心なことはない。
一年前に勤めていた会社では「自分で調べてください。自分で考えてください。それが仕事です」と言われた。前任のヒトはすでに退職していたし、現場にある資料とネットだけでウンウン悩みながら毎日やっていた。
ありゃあ、やっぱりおかしい。ま、それで勤まるヒトもいるだろうけど、私にはムリだった。
でも、そういう上司がいるということも勉強にはなったね。その上司のかたは仕事が大好きなヒトだったので、部下もきっと楽しんで働いているはずだと思っていただけだ。
そのかたは、仕事が佳境に入ると「踊っていた」。あまりのうれしさに「舞を舞っていた」。ホンマにステップを踏んで、部屋をぐるぐる回ってはったんよ。
「好きなこと=仕事」だとこんな風になるんだと、私は驚嘆した。まあ、私が二上山の頂上で大笑いしたくなるのといっしょなんだよね。
そういうヒトを目の当たりにして、私はいっそう「自分にとって仕事とはなにか?」を考えた。
で、ライフワーク・セミナーとかも行って、いろんなヒトの意見も聞いて、最終的に私は「仕事は大キラい。しかたなくやるメシの種にすぎない」という結論を出した。ちーん。
ま、私は根っからの「ナマケモノ」なんだよね。1年365日ぶらぶらだらだらゆるゆるしていたい人間なんだよね。
それが私なんだからしょうがない。いまさら働きモノに変身できるわけがない。
それよりも、ありのままの自分がナマケモノだというのに、それを「いや、努力したら働きモノになれる」とか「がんばったら人並みに働ける」とかとんでもない誤解をして、自分にムチを入れてしまうことが大問題なのだ。
そんなことをするから、疲弊してしまって最後には自爆する。強制終了がやってくる。
そういうことすべてがやっとわかってきて、じゃあ、もう仕事でがんばらへん、できるだけ手ぇ抜いてやりまっせ、と思いはじめたら、いまの会社に採用された。
ふしぎなことに、自分がヘタレだとハラの底からわかったとたん、ものすごくラクな仕事がふってわいてきた。
ヘタレでできるだけ働きたくないヤツに見合った、ゆるゆるの座り仕事が勝手に割り当てられた。
こういう流れを心理学では、「『仕事でラクしていい』ということを、自分に許すことができた」と解釈する。
つまり、これまで私は「仕事でラクをしてはいけない。仕事というものは苦労するのが当たり前だ」と思い込んでいた。「仕事=ものすごくしんどいこと」という固定観念を持っていた。
自分の内面にそういう強固な思い込みがあると、それが外側の世界に「投影」されて、ちゃんと「ものすごくしんどい仕事」ばかり与えられることになる。
コレって、要するに「めちゃくそしんどい仕事ください」と自分で注文しているのと同じで、ホンマに自作自演なのだ。
さて、それで私は「うわあ、ホンネでは仕事が大キラいやったわ。できるだけやりたないわ」とはじめて自覚した。こんな風に気づいたのは、じつは生まれてはじめてだ。
そして「ああ、なんでもエエからラクな仕事がエエ」と思っていたところ、ちゃんと「ちんまり座っているだけでいい仕事」がふってきた。
「ラクな仕事くだせえ」と注文すると、自動的に「ラクな仕事」がポンと出てくる。
丸亀製麺で「肉うどん」を注文したら「肉うどん」が出てくるのとまったくいっしょだ。それが心理学でいう「投影」なのである。
まあ、この一連の流れのなかでいちばん大きなターニングポイントは、「自分がナマケモノである」ということをフラットに認められた時点だなあ。
やっぱりね、こんな私でも、見栄とか欲とかウザッたいものがあって、自分が働けないってことをずーっとダメだと思っていたんだ。
「働く→とてもすばらしいこと」、「働きたくない→すごくダメなこと」だと思い込んでいた。そういう考えかたが当たり前だと思っていた。
でも、いまはどっちも同じやんと考えている。働くのが好きなヒトはどんどん働いたらいいし、働くのがイヤなヒトはちょびっとだけ働いたらいい。働かずにすむ境遇だったら、べつにぜんぜん働かなくてかまわない。
働くのも山登りも、好き嫌いで決めてちっともかまわない。自分がキゲンよくヘラヘラ過ごせていたら、どんな生活をしていてもOKだ。
私はいま、キラいな仕事をイヤイヤやっているわけだから、もう出勤するだけでヨシとしている。それ以上のことは、自分に課していない。
私が踊る舞台は、山の頂上だ。喜びの舞いを山頂で舞うために生まれてきたんだから、それを忘れないようにしよう。べつの場所では踊らへんねん。