よりによって「この私」がピアノを演奏する意義

私は将来、ヒトまえでピアノを弾いてみたいと思っている。

って、こんなふうにブログに書いただけでも、まあ石かなんか飛んできてもおかしくないかね?

「なんで、てめえのヘタクソな演奏を聞かされなあかんねん?」
「要するに、目立ちたいイタいヤツだね。劣等感丸出しじゃん」
「そんなクソ演奏を披露するって、なんの意味があんの?」

等々、石とか矢とか雨あられのように降ってきそうだ。

そうそう、私もむかしはそう思っていた。
とくに、クラシック音楽は名演奏が無数にあるというのに、ソコで自分が演奏する意味なんて「ゼロ」だと断定していた。

だって、すでに巨匠たちがありとあらゆる名演CDを出してるじゃん?
コンサートもリアルタイムで聴きに行けるじゃん?
YouTubeなんてシロモノまではびこっちまって、古今東西の演奏を即聴けるじゃん?

それなのに、こんな私が演奏するっていったいなんの意義があるんだね?
……と、長年思っていた。

けれども、このところそういう思いはなくなってしまったのだ。
どういうわけか、急激にそういう「妙に謙虚なフリして、いろいろ理屈をコネ回す」思いが消えちまったのだ。

それはね、もう「いまの私が演奏したいと思うなら、ただそれを実行するだけでいい」と思ったからだ。
そして、その「いまの私の演奏」でじゅうぶんOKなんだよ。

「いまの私」って、やっぱりピアニストB氏を尊敬していてマネしたいなあと思っている。
そういう私が演奏する音楽って、きっと「『ピアニストB氏を尊敬していてマネしたい』ヤツ」という音になるだろう。

「いまの私」って、生い立ちが複雑だった母ちゃんに怒鳴られてドツき倒されて育ってきて、でも癒着して、それが数年前にやっと解消した。
そういう私が演奏する音楽って、きっと「『生い立ちが複雑だった母ちゃんに怒鳴られてドツき倒されて育ってきて、でも癒着して、それが数年前にやっと解消した』ヤツ」という音になるだろう。

長年ひきこもりで劣等感に押しつぶされそうになっていたことも、でも無職でぶらぶらしてのんびり暮らしていたことも、パートが長つづきしなくてケツ割りまくってたことも、たくさんの山の頂上で感激したことも、北海道をさまよっていたことも、ぜーんぶ私の演奏に含まれる。

それでね、その私の演奏を聴いてくれるひとたちにも、同じようにずっしりとした「人生」が存在する。
どんなひとにも父ちゃん母ちゃんがいて、それぞれ人生を積み重ねてきた。

で、みんなでいっしょにこう思いたいんだ。
それでも「生きる」ってなんてすごいことなんだろう!って。
ここでこうして、みんなでいっしょにこの世に生きているって、とてつもなくすばらしいことだよね!って。

そして、「上」を見上げたいんだ。
みんなで「天」をあおいで、ああ、そういうことなんだね、私たちは「生かされているんだね」って。

そういうささやかな思いだったら、どんな演奏でもかまわないんじゃない?
見上げていたらいいだけ。

それは、なにも演奏にかぎらなくて、なにかモノを作るひともそうだし、モノを書くひともそうだし、べつに家事であっても無職でぶらぶらでもなんでもよくて、ただそのひとの心の奥底から、なにかしら込み上げてくるものがあって、ありがとう!と思わず言いたくなるんだったら、ただそれだけでいいんだと思う。

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