なにをするために生まれて来た?

「だってぇ~」と「でもぉ~」は禁句ですな。

とくに「やりたいこと」に踏み出すときは、ソレ言うたらあかんでしょ?
だのに、こないだの公開カウンセリングで、ワシ連発していたような気がするなあ。

そもそもなぜピアノを習っているのか?
習って、そしてどうしたいのか?

ってことなんだけど、某芸術大学進学はともかく、とどのとまり「人前で演奏したいから」なんだよね。う、なんか脂汗出てくる。そ、そんなこと考えてええんかいな?

いや、ええのよね。べつに「やりたいことはなんでもやったらいい」んだよね。なのに、どうしてこの「欲望」を認めたくなくて、ダーッて走って逃げたくなるんだろう?

「だって」ヘタクソだから。「だって」トシだから。「だって」すでに名演奏がゴマンとあるから。「だって」手が小さいから。とかおもくそ言い訳が噴出するんだけど、大元はだね、「自分、たいしたことない人間だから」っていうところに行き着く。



もう一回「やりたいこと」を確認してみよう。
う~ん、やっぱり演奏してみたい。そして、聴いてくれるヒトたちといっしょに「共鳴」したい。そうそう、やっぱりソレやりたい。さらに、カウンセラーにもなりたい。セミナー講師もやりたい。よくもまあ、そんなことをそれこそ人前でぬけぬけと言えたもんだが、言った言った。

で、言ったあとすぐさま「いやいやいやいや、私なんかが!って思うんですよ」
そしたら、カウンセラー先生「それ、どういうことですか?」
ワシ「いやだって、いやいや、こんなにたいしたことないのに……」
先生「『たいしたことない』って思っているものを、聴きにきてくれてるひとたちに聴かすんですか?」
「う……」
「自分で『たいしたことない』って思うものを提供するの? カウンセラーもおなじですよ。そんなに『たいしたことない』ものをクライアントさんに提供するのですか?」

いやあ、なにも言えなかった。



ただ、これはカウンセリングのほんの序盤であって、ここから「私はたいしたことない人間」について深掘りがはじまる。そう堅く信じていることによる「デメリットとメリット」をあぶり出していく。そして数段階を経て、最終的にはその「思い込み(ビリーフ)を外す」。

外してどうするの?

「ああ、やりたいなあ」って思っていることを「やる」。ごく自然に「やりたい」と思っていることを「やる」だけ。「あの山に登りたい」と思って、つぎの休日に登りに行くのとおんなじように「やる」だけ。

「そんなふうに生きてみたい」と、なにかにそそのかされているから、ソイツに乗っかってみるだけ。

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