「感情」を持たないことのメリット|堀江さなえさんの個人セッション その3

当たり前だが、「怖い」という感情を味わうのは「イヤ」なはずである。それは、4才の子どもであっても大人であってもおんなじだ。

怖いとか悲しいとか寂しいとか、だいたいそんな感情はぜんぶひっくるめて「ネガティブ感情」と言われるかな。そんなのは感じたくないのがふつうだ。

ちなみに「怒り」という感情は二次的な感情らしい。「悲しい」「寂しい」という感情を「フタ」するために「怒り」が使われる。なので、「怒り」という感情がもとからあるのではなく、「怒り」の由来はべつの感情だ。

と、むかしいっちゃんはじめに心理学セミナーに行ったときに教わった。


そんなことを習って、はあ、なるほどとうなずいてからもう5年はたつというのに、いま現在、母ちゃんに対して怖いとも思えないし、そんなことぜんぶがイヤだとも感じられなくて、ありゃりゃずっと進歩ないなあとため息をついた。

けれども、さえさん(堀江さなえさん)は「そんなことないですよ。ちゃんと変わってきていますよ」と力強く言ってくださった。

うん、そうか、そうかもしれない。なぜなら、カウンセリングのトレーニングで「感情を出せないひと」がすごくよくわかるようになっているからだ。

自分のことはまだ見えないけれど、他人のことはわかる。それは「投影」が作用しているためだが、そんなのを「あ、自分の内面が投影されて、このひとが感情を出せないのが見えてるなあ」と実感できるようになってきた。


さっきから「感情を出せない」なんて表現をしているけど、要するに「なんかエラいガマンしている」ように見えるのだ。

念のため、さえさんに「私、まだガマンしていますか?」と尋ねると、「はい、すごくそのとおりです」と即答された。

そっかー、そうなんだー、でも自分ではガマンしているのに気がつかないー。「気がついていない」ものを認識するのは非常にむずかしい。

しかし、そもそも「感情」とは「からだの反応」だと、さえさんは説明してくれた。たとえば「からだが強ばり脈や呼吸が速くなっている状態」等のことを「怖い」という名まえを付けているだけらしい。


まず「からだが感じていて」→その状態を「怖い、寂しい、悲しい、楽しい、うれしい」という名称で呼んでいるだけだ。

それで思い出したのだが、私は子どものころ、「食べ物の味」がまったくわからなかった。なにを食べても個々の味の区別がつかない。白いご飯もどのおかずも同じ味なのだ。

しかし「味がわからない世界」がデフォルトだと、「味がわかる世界」を想像できない。長年ずっとそんなもんだと思い込んでいた。

ところが、中学生ぐらいのときにだんだん「味のちがい」がわかるようになってきた。おそらく不十分ながらも「親からほんのわずか距離を取る」ことができたのだろう。


やっと「それぞれの食べ物に固有の味が存在する」ということに気がついて、じゃあこれまで長年「味のない世界」に住んでいたのはいったいなんだったんだろう?とものすごくふしぎだった。

しかしいまはその理由がよくわかる。私は「母が出してくれる食べ物に、好き嫌いの感情を持ってはいけない」と、自分を強く束縛していたのだ。

母は料理が大嫌いだったのでよけいそうなるね。だって「まずい」なんて感じてしまって、それを母に悟られたら即ぶん殴られるもんね。そんな目に遭いたくないから「味→感じない」ってなったんだ。

その「味を感じること禁止」を思い出して、なるほどねえ、じゃそれとおなじようにまだまだ自分の感情に気づけないんだなと思った。正確には、「からだに生じている変化」をキャッチできていないのだ。


であれば、まずは「いま現在、自分のからだの状態はどうなっているだろうか?」というのを、子細に観察してみるべきだなと思い至った。

ええと、「いま」はね、この記事を書いている「いま」はね、めまいがしている。ゆら~っと周囲が回りつづけている。ってことは、投影で考えたら、ほんとは自分の内部が「回っている」らしい。

なんで回っている? 180度転回かな? ゴゴゴゴーッて親から離れるための転回。生きかたの方向転換。

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