「スネるのは、きっぱりやめよう」というのを、去年からスローガンに掲げている。スネまくりの人生はこころへんでやめよう。ハタ迷惑だし、なによりも自分がしあわせになれないからやめたいのだ。
そもそも「スネるとはなにか?」を自分なりに考えてみると、それはたぶん「ゲリラ戦略」じゃないかと思う。
「ゲリラ」だから「正当なやりかた」ではない。「正当なやりかた」というのは、「あなたは〇〇という考えなのですね。それについて、私は△△だと思います。考えかたがちがいますね。では、お互いに納得できる着地点を探すために話し合いましょう」なんだと思う。
まあ、子どものころは親が有無を言わさないから「正当なやりかた」なんてまったく通用しない。その時代に、自分の膨大な不満を解消するために身に付けたのが「ゲリラ戦略」であり、「スネ」である。
あたくし、それ一本やりで生きてきましたの。
てか、ちょっと前まで「自分がスネまくって生きている。周囲にスネをまき散らしている」って自覚もなかったなあ。
まあ、自分の言い分なんてなにも言えなくてね。代わりに「スネて出て、スネを見せつけて、相手の罪悪感を刺激する」んだよね。
ヤらしいなあ。正面切って向き合わないところがとくにヤらしいなあ。言外に誘導しようとするのがヤらしいなあ。誘導する先が「ヤな気分」ってのもヤらしいなあ。
で、「スネ」について調べていたら、地雷動画が見つかった。
▼拗ねるのを、やめる方法|ナリ心理学
うわあ、「拗ねるは暴力!!」というのがコタえた。なるほど、暴力か。たしかに「話し合う」姿勢はゼロで「攻撃・反撃」したいわけだから「暴力」だなあ。陰湿な暴力だよなあ。
この動画では「スネるまでの過程」も説明している。まず、イジける。そして、不機嫌さを身体で表現する→相手に見せびらかす→相手に罪悪感を与える→相手が「なにかしてあげないといけない」と思い近づいてくる。
なので、スネているヤツというのは「相手が自分に近づいてくるようにコントロールしている」のだ。
これねえ、自分でもうすうすわかっていたけど、こうもあからさまに解明してもらっちまうと、なんかこれから先だれにも会いたくないなあ。
私の行動原理は、すべてコレじゃん。みなさん、さようなら。ちーん。
今日もパート先で妙な現象が生じた。
私は、ちょっとでも仕事を覚えようと思って、朝30分ほど早めに出勤した。うす暗いところでもそもそメモとか作っていたら、店長さんが声をかけてくれた。
「最近病院行ってるの?」
「認知症のですか?」
「そう」
「……いえ、もう行ってません」
「なんか困ってへん?」
「は?」
「あんなあ、僕が見とると、なんかすごいストレス抱えとるみたいで」
「へ?」
「あんまり訊いたらあかんかもしれんけど、すっごいストレスがあって、それでデキへんみたい」
「いやあ、ミスとか忘れるのがヒドすぎて、それでずっと緊張しっぱなしですが」
「お母さんのこととかだいじょうぶ?」
虚をつかれた。
すっごいストレス抱えとるって。
お母さんのこととかだいじょうぶって。
ほんま、どうしよ?って一瞬思った。
私って「母ちゃんのせいで、おもくそタイヘンやねんっ!」ってまだわめき散らしているんだろうか?
いや、きっとそうなんだよね。
店長さんは感じているんだ。わかっているんだ。私の心の叫びを察しているんだ。
でもなあ、そんなふうに「私がコントロールしている」と思うと、なさけなくて泣きたくなった。
いったいいつまでこんな同情劇を演じているんだろう。
こんなふうにしかひとと接する方法を知らないなんて、あまりにもみじめだ。
しかし、店長さんのやさしさも身に沁みた。
私のことを、ヒネくれためんどくさいヤツだと思いながらも、あえて「だいじょうぶ?」と声をかけてくれたのだ。
前々から思いやりのあるひとだとわかっていたが、やっぱりその通りだった。
じゃあ、私はどうしたらいいのだろう?
ふと思ったのは「もっと誠実に働きたい」ということだ。
誠実ってやったことがなくて。いつも自分のことしか考えてなかったから、誠実に仕事をしたことがないのだ。
そこをあえて、いまからでもいいから「誠実に働くとはどういうことか?」を考えてみたい。そうするべきだ。