堀江さなえさん(ビリーフリセット認定カウンセラー)が、今日のブログで怖い記事「健康診断の結果、要精密検査でして」を書いておられた。
うわあ……、〇〇〇科ってすごい質問(用紙に記入)をされるんだね。
「検査結果、内容、症状経過など、どの程度医師から説明を受けたいですか」
「あなたの病気が、例え治りにくい病気でも、その病名をお知りになりたいですか」
「もし、あなたの病気が治りにくい病気として、ご家族などが、病名を告げることに反対された場合でも、あなたは病名を知ることを、ご希望されますか」
病院の科って、まあよくあるのは内科とか外科だろうけど、〇〇〇科はきっとシビアな病気が多いから、こんな質問をさいしょにされるのか? こんな質問を受けて、「じゃあ、なにも知りたくないです」とか即答できるひとっているのかなあ。
で、堀江さなえさんが、こう問いかけていた。
あと3ヶ月しかなかったら
何をしておきたい?
なにをしておいたら後悔しない?
私だったら、やっぱり山に登るだろうなあ。まだ身体を動かせるうちに、ぜひ二上山(にじょうざん/標高517m)へ行きたい。あ、ロープウェイとかで登れる山もどしどし行こう。3ヵ月しかないならお金の心配もいらないからじゃんじゃん行こう。借金してでも行く。妹よ、相続放棄したらしまいやで。
というわけで、ピアノとか音楽がまたしても気配すらないのがわびしい。ピアノと山を両立する気もあんまりなくて、もしもそういう状況になったら、「あの山の稜線を、なんとしてでもこの目に焼き付けておきたい」と、あちこち飛び回るのが優先されるはずだ。
まあ、最終的には立山連峰(たてやまれんぽう)をできるだけ眺めるために、富山県へ転居するだろう。そこの病院にかかって、動けるうちは立山アルペンルートで標高2,450mの室堂までバスで通いつめよう。温泉もあるよ。以上。
そうすると、ピアノのレッスンは「余命いくばくなのでやめます」となるが、えーっ?! そんなていどのもんだったのっ?! 自分でもなさけなくなるが、まあね、「幸福度」がケタはずれにちがうからしゃーないねん。
山で感じる、あの全身を貫くような強烈な快感、無尽蔵にふりそそぐ多幸感、あれはいったいどげな脳内物質が放出されとるんじゃろうね?
私は、山に登るたんびに、ああもう中毒じゃけんね、こんだけどっぷりしあわせに浸れることが確約されてたら、そりゃもうやめられんばいっていつも思ってた。
山以外のことでね、「至福のよろこび」なんてそうかんたんに味わえない。私は、ほかに「ない」。どんなにバッハが楽しくても、自分で弾いてて「至福のよろこび」なんか降ってこねーよ。
なのに、いまはピアノを弾くことにしている。もう、山はおしまいにしてしまった。
それでいいのかな?
「ピアノひとつだけ」にしているのは理由がある。まず、ピアノは毎日練習しないといけない。ピアノの練習時間をそれなりに確保すると、もうほかのことができなくなる。私は、極端に時間の使いかたがヘタだし、精神的にも余裕を持てない。
今生、山はひと通り登り尽くした。あれはキリがない。別格だ。
しかし、人生で「やり残した」と引っかかるのはピアノだった。あの13才のつづきをやりたかった。だから、2年前の春にレッスンを再開した。で、これはこれで楽しい。「しあわせ」とか「よろこび」の実感はうすいけれど、充実感はある。
けれども、はっきり「山」とはちがう。「あの透明な美酒のような幸福」は山にしかない。
やや困惑する。
すると、いっちゃんよさそうなのは、ピアノのなかに「あの透明な美酒のような幸福」を持ち込むことだ。だってせっかくソレを知ってるんだから、ソレをピアノを弾くことで味わえれば、山と同様にしあわせになれるじゃん!
問題は、このヘタクソで低迷しているかぎり、おそらくきっと「あの透明な美酒のような幸福」からほど遠いことだ。山はね、低山にヨチヨチ登っても即しあわせになれるんだけどねえ。ヘタクソピアノじゃ、ちっともよろこべないんだよね。
なので、とにかくもっと練習してマシに弾けるようになろう。ピアノで幸福を得るために。以上。