うすうすわかっていたけど、「見ないフリ」をしていたことがある。
私は、来年春から年金を繰り上げ受給するつもりだ。
ふつうは65才からもらう年金を、早めに(→繰り上げ)60才からもらうことにした。
するとだな、もし私がうっかり87才(平均寿命)まで生きるとな、27年間も年金もらうことになる。
え? それって、合計でいくらもらえるんだろ?!
計算する前から、「自分が払った年金保険料」より、すさまじい大金になりそうで恐ろしい。
もらえる合計金額をBとする。
B÷A=5.94
つまり、「払った金額」の約6倍、年金をもらうことになる。
ということは、その「5倍分」は「他人からもらう」ことになる。
しかし、いまどき長生きすれば、いずれ介護してもらわないといけない。その線引きになるのが「健康寿命」で、女性なら75才らしい。
すると、およそ12年間(87才-75才=12年)は、介護や医療のお金がかかってくる。
その自己負担額というのは大したことない。そもそも「ない袖は振れない」から、そんな下流老人から取り立てるしくみもない。
数年前、父ちゃんが寝たきりになって、はじめてわかったけど、「動けない人間ひとりを生かしておく」のに、どれほど莫大な費用がかかるやら。
健康保険も介護保険も、自己負担よりも「それ以外」の額のほうがはるかに大きい。
自己負担が1割ならば、残り9割は、これまた「他人からもらう」ことになる。
父ちゃんの医療・介護には、年間約200万円を支払っていた。それが2年つづいた。
おなじ状況が、私にもおとずれる。12年間は、介護保険と医療保険をたっぷり使うことになる。
というわけで、その「自己負担以外の金額+払った以上の年金」を、ざっくり計算したら、総額5,556万円になってしまった。
あ、そう、ありがとね、でいいのだろうか?
ウチの母ちゃんは、「ジジイ、一日でも早くホニャララ~っ!」と絶叫しつつ、かつ、父ちゃんの年金はすべて自分のモノにしていた。
私は、数ヵ月だけ、父ちゃんを引き取って介護していた時期があったけど、まあもう、タイヘンだったねえ。
そのタイヘンさを見かねて、妹が老人病院を懸命に探してくれて、その病院へ父ちゃんを送り込むことができ、正直ホッとしたよ。ほんま助かった。
しかし、昭和5年生まれの父ちゃんですら、86才まで生きていた。
あ、母ちゃんもまだ生きとるわ。あのひと、いま何才やろ? ええと、昭和8年生まれだから、うわっ、88才~っ?!
知らなんだ。そないに長生きしとるんや。
ちなみに、母ちゃん、あまりにめんどくさいんで、数年前から関わらないことにした。
母ちゃんって、むかしから気軽にブン殴るひとで、まあもう、このぐらいでええかと、私は見切りをつけたのだ。
さて、それよりも、自分の老後なのだが、う~ん、こんなにも「他人のお金で生かしてもらう」というのは、けっこうショックだねえ。
それこそ、「私が長生きすると、他人が迷惑する」ってビリーフが、あらたにデキてしまいそうだ。
これからどんどん増えつづける老人と、どんどん減っていく子どもと、えーっ? そういう世の中になることが、まったく想像できないよ。
でも、「起きることは、すべて正しい」のだから、「そういう状況を迎える」のは、やっぱりなにか意味があるのだろう。
その「大量の老人たち」も、さすがにいつかはお迎えが来る。そうすると、総人口が減りつづける。
400年前(江戸時代) 1,200万人
現在 1億2,700万人
50年後 8,400万人
100年後 4,200万人
150年後 1,200万人
詳細はこちら https://www.murc.jp/uploads/2013/11/201304_all.pdf
う……、そ、そんな100年後には、総人口が4,200万人という予測だなんて!
私が生まれた昭和37年(1962年)の人口は、9,600万人だ。
う~ん、それでいくと、50年後の8,400万人は現実味をおびてくる。私らがガサッと片付いたあとは、スッカスカの日本になりそうだ。
てか、100年後は「地球温暖化」のほうが、はるかに深刻で、主要都市はとっくに水没しているらしい。気候の長期予想はかなり精度が高いという。
こういう規模で考えてみると、私は「たまたま1962年に生まれた」というタダの偶然によって、「はい、5,556万円差し上げますよ」という僥倖にあずかれるわけだ。
そうであるなら、私はほんとうにすなおに、「ありがとう。いいときに生まれてよかった」と受け取ったらいいんだなあ。
私は、どういうわけか、「江戸時代ごろの、西洋の音楽」をピアノで弾きたいのだ。
日本がまだ、1,200万人しかいなくて、飢饉だの疫病だので四苦八苦していた時代に、西洋の外人さんが作曲した曲を、ああでもない、こうでもないとこねくり回していたいのだ。
そういう老婆でええんかいな?
ええんでしょうな。
どういう生きかたでも、よろしおま、と認めてもらえる世界だと信じてみる。