昨日さんざんピアノのグチをこぼしちゃった。
「もうじき2,000時間練習したことになるけど、ぜんぜんウマくならない」って。
そもそも、その「ウマく」ってなんなん?
いま、どんなふうに弾けたら「ウマく弾けた」って、私は思うんだろう?
まあ、その前に、なんか言い訳がましく、「いや、だれだってウマくなりたいから、練習するんだろ?」とか思ったな。
それなのに、昨日自分で「『ウマくならない』けど、ピアノを練習したい。」なーんて書いていて、それもなあ。
おまい、そりゃスネてるだろ?
そうです。スネとりますね。
そしたら、FacebookでMちゃん(いっしょに心理を勉強したひと)が、こんなコメントをくれた。
「うまくなる、ならないじゃないところに面白さを見つけて、楽しみ続けられるっていいね。。。(もちろんうまくなりたいと思って練習はするんだけれど)」
Mちゃんは、ハープを演奏するひと。
じつはMちゃんって、私とは「真反対のひと」(と勝手に思っている)で、ものすごく「自然体」な女性なのよ。
てことは、私は「ぜんぜん自然じゃなくて、いつも虚勢張ってるヤツ」か。
まあ、そうだね、くそったれ。
で、これがふしぎなんだけど、あまりにも自然すぎるMちゃんと、コメントやりとりすると、なんかさあ、私、しゅーんってなるんだよ。
それ、たぶん、Mちゃんには見栄張る必要がぜんぜんないからだよね。
で、こんな私が、すっげえおとなしくなるのよ。
しゅーんって。
それでわかった。
ああ、「思うようにウマくならない」の「思うように」って、それは「自我」が言っているんだなって。
「自我」って、まあ「欲」だ。
「自我」って、「傷ついた心が発する声」でもある。
もう決して傷つきたくないから、いろいろ画策するんだよ。
その画策のひとつとして、「ウマくなりたい」が出てきていたんだ。
自分を防御する道具のひとつとして、「ピアノをウマくなろう」と思っていたんだね。
「ピアノをウマく弾けたら → もう傷つかない」と思っていたわけだ。
なんだそりゃ?!
さすがに、そんな茶番はもうやらねえぜ、ダンナ。
ただ、さいわいなことに、「ピアノそのものの魅力」が、勝手にぐーっと舵を切ってくれている。
もっと絞って考えると「ピアノの弦」だね。
「弦が響く」ってのにゾクッとする。
わかりやすいのは、それこそハープ。
▼これ、すごいの。バッハ:トッカータとフーガ ニ短調 BWV565│ハープでの迫真の演奏!
これも毎日見てるな。
そして、ピアノも弦を鳴らすんだから、うん、そうだよなあって、ピアノの弦を眺めたりしている。
「弦をいかに響かせるか」ということに、毎日携われるのは、ものすごいことなんだなあ。
たまたま紆余曲折ののち、いまこうしてピアノを弾いているけど、それって「当たり前」じゃないかも。
なんかこう、いろんな采配があって、さあ、弾いていいですよ、とお膳立てしてもらっているんだよね。
だから、グチなんて恥ずかしくて言えないよ。
すみませんでした。
そして、少しでも「うつくしく弦を響かせる」ために、練習したい。