アタマん中が、ピアノでわぁーっと沸騰している。
といっても、老体がついて行かぬわ。
ツェルニーをちょっとがんばったら、小指の付け根が痛くなった。
あきらめて、バッハに逃げたら、こっちは手にも耳にもやさしい。
バッハ:フランス組曲第4番エール、ほんとは速い曲だけど、とろとろマイペースで弾いていると、しあわせですのう。
三輪車ぐらいのテンポだったら、難所も暗譜して弾けるようになった。
▼掛け合いとか二重唱がうっとりきれいな難所
ほかの部分も、マダラ暗譜できてきたので、次の次のレッスンには暗譜で持っていけそう。
暗譜も、だんだん慣れるねえ。
まだ本番では、うんと準備しないと危険だが、ふだんウチで練習している分には、少しずつ暗譜が早くなってきた。
私の暗譜は、基本的に「ドレミの羅列を丸覚え」だ。
ピアノを再開したばかりのころは、暗譜のとき、「ドレミ」に加えて「指使い」を覚えるのに難儀した。
インベンションとか、音よりも「指番号」を覚えられなくて、いっつもアタマのなかで「5、2、1、3、5、4、2、5」って号令かけていた。
いまは、自分用の指使いを振るようになって、それを手になじませたら、そこまで「番号暗記」に苦労していない。
といっても、暗譜はじきに消滅する。
今日、発表会で弾いたモーツァルトソナタを、ちょっと試しに弾いてみたら、あらら、2小節目でもう忘れて止まってしまった。
発表会が終わり、10日間弾かなかったら、ああ、もう忘れたんだねえ。
クッキー有効期限10日かよっ?! (違)
これは、しかたのないことだ。
これこそ老化だよ。
老化で記憶力がおとろえるのは、ごく自然なことだ。
それより、短期的でもある程度暗譜ができるようになったから、まあ、いいか。
バッハのフランス組曲も、これまでずいぶんたくさん練習してきて、暗譜したのもあったのに、ぜんぶ雲散霧消。
いま、ゆっくりでも暗譜で弾ける曲は、ひとつもない。
おう、きれいさっぱり消えちまったなあ。
こういうの、ちょっと前まで、つまんないなあと思っていたけど、このごろは、あ、これが「いまの私」なんだなと納得できるようになった。
記憶も体力も関節痛も、「以前の自分」とくらべてどーのこーのをやらなくなってきた。
「過去-いま-未来」が、同時にあるんじゃなくて、ま、とりあえず「いま」しか生きられないから、それじゃ「いま」だけ。
とりあえず「目の前の草」を抜いてみる。
それにしても、発表会では、若いひとたちの伸びが驚異的だった。
例によって例のごとく、発表会のプログラムを、前回と前々回の分も持って行って、うわっ、2年前にツェルニー弾いていたあの子が、もうこんな大曲を!とか、ひそかに興奮していた。
いや、ほんと、すごいねえ。
それに、顔つきや表情まで、まったく変わっちゃって。
あっという間にオトナになってしまって、演奏も立ち居振る舞いも別人のよう。
私なんて、なにごとにも本気で取り組まなかったから、コドモ→(大人になれない)コドモ→即老人という人生だった。
オトナ抜きで、いきなり老人。
もうすぐ年金受給者。
まあ、年金生活はあこがれだったから、それで正解っちゃー正解だけど、すっかり大人びたこどもたちを見ていたら、若干わびしくもある。
しまったなあ。もう少し、なにかちゃんとやっておけばよかった。
私の人生で、終始変わらず不動だったのは「ぜんぜん働きたくない」ということだった。
これだけは、だれにも負けず、微動だにせず、「いや、まったく仕事しとない。1分たりともイヤじゃ!」と連呼しつづけてきた。
働くことから逃げまくってきたが、最後の「あがり」が「年金の繰り上げ受給」で、え? そういうスゴロクでええのん?!と、本人がいっちゃんびっくり。
しかし結局、イヤなことから逃げて、やりたいことしかやらない、ってのをずーっとやってると、ああ、オトナにはなれないんだなあ。
いまは、ピアノを弾くのが楽しいけれど、これも単に好きだから、好き勝手にやってるだけで、「顔つきが変わるほど」なにか鍛錬しているわけじゃない。
長年「山」がおもしろかったが、それが「ピアノ」に転じただけ。
その「自分勝手さ」は、うすうすわかっていたから、ピアノの先生が、発表会前に言われたことばがコタえている。
「これまでは、ずっと『自分のため』にピアノを弾いてきたでしょう?
でも、そろそろ『お客さんのため』に弾くことも考えましょう」
自分が楽しいだけじゃアレなんだなあ。
そういうのは、やっぱり聞いているひとにわかっちゃうんだね。
じゃあ、なんだろう、「聞き手によろこんでもらえる演奏」とか、考えないといけないのだろうか?
ああ、そうだよね。
いつも弾くのにせいいっぱいとか、自分だけ楽しければよろしいとか、そりゃちょっとちがうよな。
というわけで、なかなか「むずかしい草」も生えてきているのだ。