私が「苦手なモノ」って、ぎょーさんある。
よく考えたら、「好き嫌い」なんて自分の自由で、嫌いなモノがあってもちっともかまわない。
「好き → 良いこと」「嫌い → 悪いこと」じゃないよねえ。
でも、「嫌い」という感情には、罪悪感がひっつきやすくて。
私の場合、「世間一般のひとが、ふつうデキていること」に対して、「それ、苦手」とか思うと、「ああ、自分はダメだなあ」と思ってしまう。
その最たるモノが「仕事」。
ダメだったねえ。
18歳から59歳まで、どこで働いてもぜんぶダメ。
どの仕事もぜんぶ嫌い。
いい思いをしたことが皆無で、憎たらしいほどとことん嫌い。
しかし、その「嫌い」の内容に、「『仕事が嫌い』という自分も嫌い」ってのが含まれていた。
ふつうのひとは、折り合い付けて働けるのに、それすらデキない自分はダメ、とかも。
だから、その「自己嫌悪、罪悪感」のほうがよりコタえて、それでいっそう、「仕事がらみ全般、胸クソ悪いほどでえぇっ嫌い!」になったんだと思う。
さて、その「仕事嫌い」とちょっとよく似た感じで、苦手なのが「ニュース」。
ニュース、見ない。
2年半前からテレビ見られないし。
前は、パソコンでごくたまにテレビを見ていたが、2年半前引っ越したとき、アンテナ線買うのめんどーで放っていたら、そのまま見なくなった。
ネットニュースも見ないねえ。
ニュースが嫌いな理由はね。
たまーに読んでも、あまりに「たま」すぎるせいか、たいがいの記事がなんのことかさっぱりわからんのよ。
むずかしすぎ。
で、自分の興味があることと、まったく無関係だし。
「ピアノで弱音を出す練習方法」とか、べつにニュースでやってくれない。
自分に関係ないことを、一方的に「ホレ、読め」とか突き出されるとうっとうしい。
だから、ニュースは見ない。
けれども、わりと多くのひとがニュースを見ているようで、気後れはしていた。
そういうひとたちが「当たり前に知っている」ことを、自分が知らないと、ちょっと恥ずかしかった。
「無関心でいる」「目にしても何も感じない、考えない」ことも、自分のニブさが露呈しているようで、劣等感を覚えた。
しかし、堀江さなえさんの昨日の▼この記事。
いいんだよ
あなたは、あなたとして、地に足をつけ日々暮らし、あなたの幸せを追求していい
――堀江さなえさん
この記事を読んだら、いままでのモヤモヤがだいぶん吹っ切れた。
さらに、堀江さなえさんが、私へのコメントで、こう言われた。
「春子ちゃんは、いつも今を生きる人だよねぇ
私はそれ、とても地に足の着いた印象を受けるよ
タイタニックで、船が沈むと分かりながら演奏を続けるオーケストラを思い出したよ」
タイタニックの、あの演奏しているひとたちかあ。
むかし、上司の熱心な勧めで、映画「タイタニック」を見たけど、うんうん、あの演奏しているシーンはよく覚えている。好きだった。
私はこれまで、ろくすっぽ所得税も払ってねーし(給料安すぎて課税されない)、年金保険料も払ってねーし(貧乏すぎて免除期間長すぎ)、しかし、のうのうと暮らしている。
ニュースも世間も、なんにも関心持たずに、けれども、早々と年金(スズメの涙)もらってのんびりしようとたくらんでいる。
それ、なんかズルくない?って思っていたが、あ、そうか、それでもかまわないのか。
――堀江さなえさん
そうだなあ、そうだよなあ、ヒトって「自分が得意なことをやる」のがもっとも適切だよなあ。
デキない私がムリしてやるより、私よりもっと「所得税払うのが得意なヒト」とか「年金払うのが得意なヒト」におまかせしたほうがいい。
世の中の問題に対しても、「ほんとにそれに関わりたいひとたち」にまかせるのがいちばん。
そんなん、ぜんぶ私は「苦手」だけれど、世間はいろいろで、高給をもらうのが得意なひともいれば、社会問題に取り組むの得意なひともぎょーさんいてはる。
私がいっちゃん得意なのは「ぶらぶらすること」。
日がな一日ぶらぶらだらだら、ピアノ弾いたり、近所をうろついたりが得意。
あ、むかしは「野宿」も得意だった。
でも、だからといって「所得税払うのが得意なヒト」に引け目を感じることはないんだね。