今年1月1日から、いちおうちゃんとウォーキングをはじめた。
1日3,000歩ぐらいからスタートして、2ヵ月たったら、最高6,000歩を超えるようになった。
でもまあ、6,000歩も歩くと、足腰の痛みがひどいし、疲れ果てる。
息切れや動悸も取れないので、ちょっとやりすぎかもしれない。
3月からは、いったん5,000歩に減らそうかなと思っている。
で、慣れたかどうか?
いやあ、それがはかばかしくなくて。
まだマンションの階段は「1段2歩」なのだ。
この調子だと「1段1歩」まで、あと2~3ヵ月かかりそうだな。
とはいえ、たぶんいつかは「1段1歩」で、ごくゆっくりなら達成できそうだ。
やっぱり「全身の老化」が進んでいるなあ、とあらためてヒシヒシ感じる。
ちょっとトレーニングしたからといって、「老化」がなくなるわけじゃない。
ピアノも、毎日弾いているけれど、老化のスピードが早いので、上達にはつながらない。
去年夏ごろ、痛みがひどくなったあと、
・少し速いテンポでも、弾けなくなる。
となってしまった。
これ、その後どうなるかなあ?と思っていたが、そのまま固定してしまった。
正直なところ、がっかりしている。
しかし、身体の具合も低下してきているので、冷静に考えると、まあこんなモンかな。
「昨日の終わり」より、「今日のはじめ」がいつもヘタになっている。
てか、1時間休憩をはさんだだけでも、「休憩前」よりヘタになっている。
こういうことに「平気でいられるか?」というと、いやいや、まだそうでもない。
う~ん、やっぱりまだがっかりしているなあ。
つい「期待」してしまうんだよね。
毎日練習していたら、いつか「昨日の終わり」<「今日のはじめ」という日が来るんじゃないか?
「休憩前」<「休憩後」なーんて現象が起こるんじゃないか?
なにかどこかで「マシになる」というごほうびを欲しがってしまう。
そりゃ、ピアノを弾いていたら、音が出ているだけでおもしろいんだけど。
「もっとこんなふうに弾きたい」などと、期待してしまうと、毎日ズリ下がっていく現状にがっかりしてしまう。
その「期待」があかんのよね。
根本裕幸さんがよく言われていた。
「『理想と現実』のギャップが『自己攻撃』なんです。
『現実じゃダメだ』と思うこと自体、現実を否定しているわけですから」
うん、そうだなあ。
「昨日の終わりより、ヘタになってたらダメ」って×印つけてるなあ。
「階段は1段2歩じゃダメ」って×。
しかしねえ、それやってたら、結局「トシ寄りはダメ」って大バッテンつけることになるよな。
ずっと前、母ちゃんの介護をしていたとき、母ちゃんが「歩くとき、杖、使うのイヤだ」とゴネていた。
母ちゃんは「トシ寄りみたいで恥ずかしいからイヤだ」という。
もう足元がおぼつかなくなって、壁伝いでしか歩けなくなっても、まだ杖を使うことに抵抗していた。
そのとき私は「え? メガネ使うみたいなモンじゃん、べつに気にせんでええやん」と言っていた。
だよねえ。
いまの私にも、それでいいんだよね。
ピアノが、昨日よりヘタになっていても、そういえば、べつに気にすることないね。
なにも急いで「階段、1段1歩」をめざさなくていい。
「だんだん老いていく身体」に、もっとやさしくしてあげよう。
そう、それ。
「やさしく」とか「いたわる」とか。
たぶん「いまの身体」が欲しいことは、トレーニングではなくて、そういう「思いやり」なんだよね。
歩数も、それからピアノの練習も、もっと減らそうっと。