「自分のほんとにダメなところ」って、なかなか言えないねえ。
まあ、「『ちょっと』ダメなとこ」ぐらいは、グチっぽくぱあぱあ言えるか。
でも、それは「気軽に言える」ということ自体、もうあるていど「自分がほんとにダメ」とは思っていないから、言えてしまうのだ。
「ほんとにダメなところ」は、あまりにもダメすぎて、自分ではもうぜったいに見たくなくて、とうのむかしに堅く「封印」してしまっている。
だから、自分では「気が付かない」。
自分じゃ、もう「なんのことかわからない」。
しかし、その「ほんとにダメなところ」は、なくなったわけじゃない。
その「ほんとにダメなところ」は、「他人」に見えてくる。
「イヤなヤツ」「ダメなヤツ」として、ちゃんと登場してくる。
これが、心理学でいう「投影」で。
「投影」とは、自分のココロのなかの要素が、外の世界に映し出されて見える現象のことだ。
こんなん、ふつうわかるかねえ?
「その『イヤなヤツ』って、ほんまはあんたでっせ」っつって、「はあ、そうでっか」って納得するかよ?
私は、いまだにほとんどわからない。
だけど、その「イヤなヤツ」を忌み嫌うだけじゃ、ぜんぜん解決にならないな、とはわかってきた。
2月15日のレッスンのとき、モーツァルトソナタの出だしが具合悪かったとき、そのあとすぐに「逃げてしまった」。
気もちを立て直して、少しでもいい演奏をしようと思えなかった。
ああ、もうダメだなとすぐあきらめて、カタチだけ弾いて終わってしまった。
そのとき、はじめて「自分は弱いなあ」と気がついたのだ。
けどね、そもそもこれまで「私は弱い」と思っていなかったんだ。
どっちかといえば「わりと強い」とさえ、思っていた。
やりたいことがあれば、さっさと実行するし、基本的にヒトにどう思われようと気にしないし。
けれども、その日の「投げやりになって逃げた」気分は、すごく引っかかった。
うわ、この「弱さ」が「ほんとの自分」じゃねーの?って、ギョッとしたわ。
なので、レッスンの帰り、つらつら考えていたら、母ちゃんのことを思い出したのよ。
7年ほど前、当時母ちゃんはサ高住に入所していた。
私は、そのサ高住のすぐ近所のアパートに住んでいた。
日中はほぼずっとサ高住へ行って、母ちゃんの世話をしていた。
母ちゃんは、食べ物の好き嫌いが多くて、サ高住で出るごはんを食べられないことが多い。
なので、あらかじめ献立を見ておいて、母ちゃんが嫌いなモノがあるときは、代わりの食事を私が買っておく。
食堂で、私がサ高住の食事を食べ、母ちゃんは、私が買ってきた出来合いのモノを食べる。
そこのサ高住は、母ちゃんが自分で希望して入ったにもかかわらず、スタッフや入居者とのいざこざが絶えず、母ちゃんのキゲンはどんどん悪化していった。
「事件」があったその日の昼食も、母ちゃんが嫌いな献立だったので、私は、あらかじめコンビニでざるそばを買ってきておいた。
食べ物の好みもこまかいから、事前に、各コンビニや総菜を売っている店の、全商品を撮影してスマホに収めてある。
私はこういう「シラミつぶし」は好きなので、まあ、母ちゃんの気が済むように、すべての商品を写真に撮り、フォルダに分類してあった。
母ちゃんも丹念に目を通して、値段も確認して選択していた。
私は、よくめんどくさくないなあと思っていた。
いや、やっぱりめんどくさいんだよ。
母ちゃんはイライラしながら、それでも長い時間をかけて、代わりの食事を選び、最後は「ココ(サ高住)のごはんがマズいから、こんなムダなことをせんならん」といつも怒っていた。
で、その日は、母ちゃん指定のコンビニで、指定のざるそばを購入して、母ちゃんの席に置いた。
母ちゃんを席に座らせて、私は、サ高住の食事を取りに行っていた。
母ちゃんの代わりに、私が食べる分である。
そして、お膳を持ち帰って、自分の席についた。
すると、母ちゃんが凄まじい表情を浮かべているのに気がついた。
もう、目の焦点が合っていない。
顔色もドス黒く、半開きの口からは「バカだ、バカだ、大バカだ」というつぶやきが漏れている。
母ちゃんは、まるで「死の宣告」でも受けたかのように呆然としていた。
いったいなにが起きたのか?