「寂しさ」はだれかと暮らすとなくなるモノか?

日々のあれこれ

昨日転んで、ゆっくり?尻モチをついた母。

今朝になったら、痛みは少しマシだという。

イスに腰かけてじっと動かなければ、ちっとも痛くないそうで、じゃ、クリニックへ行かなくてもいいね。

これまで服の脱ぎ着は、ほぼ自分でやっていたが、いまはお尻の痛みがあるので、私がぜんぶ手伝っている。

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下着の取り替えもぜんぶやってもらえて、とっても満足そうな母ちゃん。

ま、そだよねえ。

トシ取って、動くのがしんどくなってきて、だれかに丸ごとおまかせにできたら、そりゃラクでうれしいよな。

「まだ自力でできることは、本人がやったほうがリハビリになる」とも聞くけど、90にもなったら、そういうのも卒業でええかも。




で、着替えにしろ、上げ膳据え膳にしろ、シャワーもヘルパーさん介助だし、ほぼ一日なにもすることがない母。

そうなると、話相手として、ほんとは私にずーっとそばにいて欲しいのだ。

けど、それはヒマつぶしというより、「寂しいから」だという。

母「同じウチにいるのにね、春ちゃんがなんやかんや用事して、私のそばにいないと、ものすごく寂しくなるのよ」

ふうん。

まあ、それはウスウス感じていた。

このヒト、相手がだれであっても、「自分に関心が向けられていない」とわかると、とたんにものすごく寂しくなるのよね。

「見捨てられてしまったような寂寥感に襲われる」とのこと。

だって、私がベランダで洗濯物を干しているときでさえ、そういう「寂寥感に苛まれる」んだとさ!




ひゃあ、すんごい!

母は生い立ちが複雑だったから、そういう「寂しさを感じる能力」が、異様に発達してしまったのかもしれない。

あまりにも「寂しい寂しい」を連発するし、とめどなく「寂しさ」があふれ出てくるもんだから、しまいにあたしゃ、おい、そないようけ出てくるモンがあるなら、発電エネルギーとかに変換できんかねと思ったよ。

そもそも私は、表立って「寂しさ」を感じることがあまりない。

ただ、自分のココロの奥底には「寂しさ」があるだろうな、とは思う。

だれかに「自分をわかってほしい」とか「認めてほしい」とか、もともとそういう欲求があり、それが満たされないために、どこか「ウラ寂しい思い」がある。

うん、それはたしかにある。

そういった「ウラ寂しさ」は、私の場合、なぜか「やる気が出ない」という症状になって出てきていた。

だから、私の表面的な悩みって、ずーっと「やる気が出ない」ってことだった。




ところが、だ。

その積年の悩みであった「やる気出ない問題」は、いまはすっかり解消している。

それは、じつは「母と同居したおかげ」である。

ってことは、やっぱり「私も寂しさを抱えていた」んだね。

でも、その寂しさは、母と暮らすことによって、すっかりなくなったんだ。

「どこかウラ寂しい」どころか、毎日むちゃくそ忙しいし、すぐそばにおるのに「寂しい、もっとかまって」とのたまうばあちゃんの相手もせんならん。

とはいえ、「自分がだれかの役に立っている」「自分に役割が与えられている」ということは、かなり容易に充実感をもたらしてくれる。

よし、けっこう土台がしっかりしてきたな。

つぎは、ピアノに取り掛かりたい。

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