だれでもそうなりがちだと思うけど、「自分が基準」になる。
自分の起床・就寝時刻、自分好みの食事、自分好みの静けさとか、「自分の生活パターン」が当たり前にあって、それを他人に乱されたくない。
母の場合、もともと若いころから、その基準をキチンと守りたいという気もちが強い。
私も、むかし実家で両親と同居していたころ、会社が休みのときなど、うっかり朝寝坊をして、母にずいぶん叱られたもんだ。
逆に、私が出勤するときは、母の起床より私が早くなり、このズレも母のストレスになっていた。
なので、今回母と同居するに当たっては、「母の生活パターンにぴったり合わせること」をとくに重視した。
ほんとうは、テレビとラジオも、私がいっしょに視聴することを母は望んでいるが、すいません、コレはかなりキビしくて実現できていない。
「趣味趣向を合わせる」というのは、私にとってかなりむずかしい。
母は、野球・相撲・演歌・クイズ番組が好き。
とくに野球が大好きで、むかしは私もいっしょに野球観戦に行った。
でも、いまだ野球のルールがよくわからない。
そもそもファンの気もちがわからない。
もし仮に、私が野球に関心を持ったならば、「自分で野球をしたい」と思うだろう。
そうはならずに、「野球選手を応援する」という気もちがよくわからんのだよ。
それは、私がピアノの演奏を聴くときもおんなじ。
あるピアニストの演奏を聴いて、おこがましくも「あんなふうに弾けたらいいな。お、ココは勉強になるな」とは思うものの、そのピアニストを「応援だけしたい」とは思わない。
私はつねに「自分がなにをするか」ということにしか、関心がない。
このワガママさがたたって、いくら「母の満足度を上げる」という目標を掲げていても、テレビをいっしょに見て「楽しいフリをする」ことには、手を付けられない。
演技力を磨くことに関心がないんだよ、たぶん。
なんだけど、もし私が母といっしょにテレビ・ラジオを視聴できるようになったとしても、それほどね、母の幸福度は上がらないんじゃないか?
そんな気がする。
母の望みは、できるだけ叶えるよう、それなりに工夫しているが、「自分の力が及ばない部分」って、じつはかなり大きい。
ときどきクローズアップされる「騒音問題」も、そのひとつ。
母自身の老化が進み、徐々に身体が不自由になるってのも、そう。
母が「過去の出来事」にいまも苦しめられることも、そのとおり。
ああ、無力だなと実感する。
どうやら私は、「自分はもっと母を満足させてあげられるはず」と、自分の実力を過大評価しとりましたな。
そんなの、そもそもデキないんだよ、だれかを満足させるなんて。
デキることって、せいぜい「そのヒトのそばに居ること」程度。
そばに居て、オロオロしているのが関の山。
まあ、それが自分の役割だと、やっとわかってきた。