私は、これまでの人生で「寂しさ」を直接感じたことはなかった。
なので、ひとり暮らしが気楽で、自分に合っていると、そう思い込んでいた。
実家を出てから28年間、そのほとんどがひとりだった。
その間、とくに夢中になっていたのは山登り。
30代~40代、底が抜けたように登りつめた。
当時は「日本三百名山完登」をめざしていたので、北は利尻島、南は屋久島まで、延べ600山以上踏んづけてきた。
たぶん、自分にもっとも「至福のよろこび」を与えてくれるのは、山だろう。
それは、生涯変わらないはずだ。
ピアノはというと、次善の策に近いものがある。
必ずしも2番目とは言い切れないが、今生が1回限りならば、ふうん、そうだね、「山だけ」ではもの足りない。
「気になるピアノ」は、やっぱり一度はどっぷり浸かってみたい。
そう、私は「どっぷり」だの「夢中」だの、「没頭、没入、陶酔、感嘆、恍惚、忘我の境地」が大好き。
こういう感情を味わいたくて、生きとるのう。
しかし私は「人間関係」において、この種の感情を持てなくてねえ。
「人間関係でどっぷりが大好き!」というヒトも、おりますがね。
母ちゃんは、その典型みたいだ。
母とは、7月から同居して以来、いろんなことを話してきた。
その結果、おたがいに「あまりにも性格がちがいすぎる」という事実に気がついた。
いま現在は、「どれほどちがっているか?探し」に興じて、そのへだたり具合に笑いころげている。
母も私も「熱中したがり」なのだ。
でも、その対象がまったくちがう。
私は、山と自然とピアノと本。ヒトには無関心。
母は、ヒトだけ。
母ちゃんってば、「ヒト」しかあかんので、すぐ絶滅の危機に瀕する。
笹しか食べないパンダや、ユーカリしかダメなコアラみたいに、「ヒト」が切れると壊滅寸前。
以前7年間、子ども(私と妹)が、母に連絡を取らなくなった。
そしたら、母は「生きていても無意味だ」と悲観し、本気で「あちら側」へ行く方法を思案したという。
ソレを聞いて、さっぱり理解できないのがあたし。
はあ? なんぼでもおもろいこと、楽しいことあるのに、どないしたん、このばあちゃん?
母にも好きなコトはある。
歌やテレビ、むかしは本も好きだった。
でも、母にとってそういうことは、ほんの気晴らしていどらしい。
「いつも寂しい。
たまーになにかあっても、落ち穂拾いぐらいかな」
私は「ヒト以外に没頭しておもろくてたまんねー」人種なので、ついうっかり、母にもあれこれ勧めてしまった。
ユーチューブもそのひとつで、母のテレビで、ユーチューブを見られるように契約もしてみた。
けどね、やっぱり「寂しさ」は変わらない。
どうやらユーチューブを見ていると、余計に侘しさがつのるようだ。
まるで、デイサービスで、時間つぶしのために、みんなそろってテレビを見させられるかのように。
結局、母テレビ用ユーチューブは、先月末で解約した。
私は、母ほどの寂しさは、とうてい感じることができない。
そしてまた、母の寂しさを、自分が完全に解消しようとも、積極的に思えない。
なぜなら、スキマ時間があったら、ピアノだの本だの、自分がおもしろいことに費やしたいから。
しょーがないので、ムリない範囲の余力を使って、ちょいちょい母の部屋へ、笹やユーカリを運んでおります。
ま、パンダもコアラも、よろこんでいたら、ちょっとかわいいしね。
と感じる私は、ホントはわずかに寂しかったのだろう。