「春ちゃんがうらやましいわ」と母が言った。
「なにが? どこが?」と私。
「だって、友だちとかヒト付き合いとか、いらないって言ってるでしょ?」
「あ、そうだね」
母「私はそこまで割り切れなくて、だからつい、だれにでも気を使っちゃうの」
いやまあ、私も介護関連のヒトたちには、いちおう「作り笑い」は見せている。
バレてるだろうけど。
私だって、むかしは他人に対してコビるような、おもねるような、ヤらしい接しかたをしていた。
「私がこんなに気を使ってるんだから、あんたも気を使ってよ。ちゃんと好きになってくれよ」と、だれかれなく迫っていた。
でも、いまはちがうなあ。
以前「他人から良く思われたい」と画策していたけど、いまは、ソレなくなった。
なくなった理由はハッキリしている。
ずっと前、私は母に対して、いろいろネガティブな感情を抱いていた。
あんなことされた、こんなことされた、ああ言われた、こう言われた、ああして欲しかったのに、こうして欲しかったのに……
けどさ。
結果的に、ソレぜんぶ「コドモの甘え」だとわかったんだよね。
親の愛情に気がつかず、文句ばっかり言ってたわけ。
そういうの、ガチンコにわかったのは、大和内観研修所で一週間の集中内観を受けたとき。
もう去年の2月だねえ。
そのときから1年ちょっとたって、母も延命治療受けるような身になってしまって。
そんなこんなで、「他人が自分をどう思うか?」とか、関心がなくなっちまった。
わかりやすい因果関係は説明できないけど、なんつーか、「親に対するわだかまり」が消えると、それに連動して、他人が気にならなくなった、みたいな感じ。
で、いままで以上、さらに他人がメンドくさくなった。
もー、介護関係のヒトたちにも、仏頂面でいこうかな。
母に「いいヒト看板、降ろしたら~?」なんて勧めたいんだったら、まず自分がやってみんとな。
笑いたくもないのに、取って付けたような「作り笑い」なんかやめたい。
やめよう。
さて、母ちゃんはどうなるかな?
これからも訪問入浴介護のたびに、疲れ果てるのは予測できる。
でも、母がどうするかは、やっぱり母次第だなあ。
なんかつい「いいヒトぶるの、やめたら?」とか、安直に言ってしまいそうだけど、ソレをうかつに言うか言わないか?
私にとって、そのちがいは非常に大きい。
そこを「あえて言わない」ってのを選択したよ。
なぜなら、「いいヒト看板」は母の生存戦略だったので、それほど重大なコトを、私が「やめたら?」なんてカンタンに言う権利、ないもんね。