自分でわかっているようで、じつはわかっていなかった特性が、「遅い」ということ。
ええと、これって、「努力したら、いつか早くなる」と思っとったわ。
まあ、努力とまでいかなくても、「工夫したら」とかかな。努力キラい。
やっぱり、「自分は、なにをやっても『遅い』『遅すぎる』」ということを、認めたくなかったんだね。
しかし、この「遅さ」については、親からほとんど注意されたことがないのよ。
というのも、親もかなり「遅い」んだよね。
母ちゃんは、私よりも、まあちょっと早いけど、一般人よりはだいぶん遅くて、やはり「人並みになにかこなすこと」は、すごく苦手でタイヘンそうだった。
さらに、父ちゃんは、私よりももっとずっと遅い。ふだんの動作も、まるで太極拳みたいにゆっくりしている。
じーっと動かない時間が多い。だいたいスピーカーの前でうなだれて、レコードを聴いている。
まあ、ずいぶん変わったおっさんだったから、会社では「無視」されていたらしい。でも、そのことを、ぜんぜん気にしていなかった。
出世も地位も、なんにも興味がないんだよ。そもそもサラリーマンに関心がなかったのだ。
父ちゃんは、芸術家とか学者を尊敬していたから、たぶん会社員なんてくだらないと思っていたんだ。
父ちゃんの父親(私のじいちゃん)は、工場の工員だった。父ちゃんの遺品のなかから、じいちゃんの履歴書が見つかったので、どんなひとか、ちょっとだけわかった。
へえ、じいちゃんって、明治25年(1892年)生まれなんだねえ。はじめて知ったよ。まだ19世紀だよ。
音楽でいえば、ラベル(1875~1937)が生きていたころだね。ぜんぜん関係ないか。
ところで、ウチの父ちゃんは「記録好き」だったようで、なんか知らんけど、かなり細かい年月日があちこちノートや紙に記録されていた。
それによると、じいちゃんの履歴はつぎのとおり。
年月不明 母が入水自殺。
明治28年12月6日 3才11ヵ月のとき、養子に出される。
養子先の養父は、漁師。大酒呑み。朝から飲酒。末期の水も酒。
明治39年3月 14才 小学校卒業。
明治40年5月 15才 鉄工所へ見習工として入所。
大正4年 23才 結婚。のち、5男4女をもうける。
一時期、神戸で、アイスクリームの行商をしていたらしい。
大正13年2月 32才 紡績工場へ入社。
昭和23年4月 56才 紡績工場を定年退職。
没年月日 不明
私の父ちゃんの戸籍謄本がなくて、肝心の亡くなった年がわからない。ごめんね、T子ちゃん。
たぶん妹は、このじいちゃんに会ったこと、ないかもしれない。
私は、4才下の妹が生まれたとき、父方の実家にしばらくあずけられていた。
ああ、そうか。それは昭和41年のときだな。
えっ? じいちゃん、74才かっ?! いま、気がついた。
そのあずけられていたとき、私は、とってもじいちゃんと話がしたかった。
でも、じいちゃんは、いつもぼーっとしていて、ぜんぜん私のほうを向いてくれなかったんだよね。
それがずっと寂しかったけど、なるほど、74才じゃあ、ムリかもしれん。
と、いまごろになって、本人4才のときの事情がわかったりする。
でも、その家では、すごくやさしい「おばちゃん」がいて、私はずいぶんかわいがってもらった。私がなにをしても怒らない「唯一のおとな」だったよ。
で、じいちゃん。
履歴を見ると、働きづめで苦労しているよなあ。最後の工場は、24年間も勤めているし。
けれども、9人の子どもを育てるために、黙々と働いていたんだと思う。
そういうじいちゃんを見て育った、私の父ちゃんは、やっぱり「安定した生活するなら→サラリーマン」と思っていて、だから高校を出たあと、就職したんだよね。
ところで、その「苦労してそうなじいちゃん」ってどんなひとだったのか?
数年前、私は、寝たきりになった父ちゃんから、尋ねておきたいことを、聞き取り調査した。
じいちゃんって、どんなひとやった?
とっつも怒らんひと。
ばあちゃんのケツに敷かれて、ぺしゃんこ。
たまに、アンパン買うてくれた。
ほんまに、タダのいちども「怒らないひと」だったらしい。
そんなひと、おるんやね。
ただ、なんとなくだけど、そんなに「機敏に仕事がデキる」ようには、思えなかった。いや、そう思いたいのだ。
じいちゃんって、すげえヒトが良くって、苦労を苦労とも思わず、ヨメはんにボロクソにあしらわれて、いつもオタオタしていて、まあ、そんな感じやったら、私はホッとするな。
ああ、じいちゃんも父ちゃんも、みんな「グズ」だから、私も「グズ」でいいんだって、ホッとするな。