私は、ひじょうに「ズボラ」である。
「やらないといけないコト」でも、気が向かなければ、まず「やらない」。
で、たいてい「やらんとあかんコト」って、ぜんぜん気が向かないから、まったく「やらない」。
「やらなあかんコトを放っておくこと」を、このごろは「先のばしグセ」というらしい。
いやあ、「さ き の ば し ぐ せ」なんて、長すぎ。
「ずぼら」でええやん。
んで、私は、そのズボラかましまくりの人生なのだが、まあ、放っておいたら「自然消滅するヤツ」もある。
よく「夏休みの宿題を、最後の日にどーたらこーたら」とか言われるけど、私、宿題って、ちゃんとやった試しがない。
べつに「やってません」って、しゃあしゃあと開き直っていた。
小学生ぐらいから、そんな感じ。
そのころから、学校の先生に対して、こう思っていた。
やりたくないモンを、どうやってムリヤリやらすんじゃい?
おまえがなんぼ言うたかて、字1個でも、書かすことでけへんやろ?
まあ、もともと性格が悪い。
やらんかったら、しまいじゃ。
ボケ。
そしたら、宿題をやらなくても、困ったことは、なにも生じなかった。
会社へ行くのが、イヤになったら、行かないことにした。
行きたくないモンを、どないせえっちゅーねん?
首に縄つけてってヤツ?
行かんかったら、しまいじゃ。
ボケ。
まあ、しばらく行かなかったら、クビになったけど、それぐらい。
退職するとかせえへんとか、ゴチャゴチャはいっさいなし。かんたん。
ちょっと前に、妹と電話しているとき、
〇〇さんは、勤め先がブラックでタイヘンなんだよー。
もう8年も行ってるから、辞めるに辞められないし。
へ?
そんなん、会社、行かんかったらええやん?
イヤだったら、明日から、行かんでええんちゃう?
そんなっ!
ふつうのひとは、そういう無責任なこと、できないよ!
へえ、そうなんだ。
この「テコでも動かんぞ。おまいらの言うとおりなんか、だれが動くか、ボケ、カス、アホンダラ」というのは、モトをただせば、「親に対する反抗」なんだけどねえ。
ウチの親は、子どもに対して、「自分の意志を持つな」というしつけをしていたのだが、私は、それがヒドくイヤだった。
まあ、親は、私が従わないとブン殴る。
さすがに、それはかなわんので、私は、他人に対して、ゲリラ的に反抗するわけだ。
でもねえ、そんなふうにずっと、
だれの言うとおりにもならへんで。
だれにも、私をコントロールさせへんで。
と、恨みつらみをエネルギーにして、ボンボン燃やしていると、自分にとって、都合の悪いことが起きた。
それは、
つまり、
コレって、結局、スネすぎて、「自分の要求」ですら、問答無用で拒否しているんだな。
ずいぶん長いあいだ、この「めんどくさい」の正体がわからなかった。
自分が「やりたいな」と思うことですら、「めんどくさい」の壁にはばまれてしまう。
たとえば、ピアノの演奏をYouTubeにアップすること。
これも、本当は「やりたいこと」なのに、「ああ、めんどくさ」ってフタをしてしまう。
メンドーなら、やらんでええわ、で済ましてしまう。
いやいや、ホントは、やりたいのに。練習記録として、残しておきたいのに。
でも、ようやく「めんどくさい」の正体がわかったよ。
「本来の自分」につながろうとすると、ぬーっと現れて、デンと居座って動かない。
「めんどくさい」なんて、たいしたことないように見えるけど、いや、手ごわいよ。
だれかに、なにかを頼んだとき、
めんどくさい。
そう言われたら、どうしようもない。
なんか、話し合いの余地すらなくて、目の前でシャッター降ろされたみたいだ。
で、いま、やっと気づいたわ。
だから、私がうっかり「めんどくさい」と感じたとしても、じつは、そのシャッターの向こうには、「ほんとの自分」がいるんだ、とわかったわ。
なので、まあ、そのシャッターをだな、「よっ、すんません、開けまっせ」と遠慮なく引っぱり上げて、勝手に向こう側に行ったらエエねん。
そしたら、「ほんとの自分」に出会える。