「感情」って、どこにあるか?
心理のことを学ぶまえは、
そりゃ、「感情」なんて「アタマ」にあるだろ?
「脳ミソ」ん中にあるじゃん?
ってのが、当然と思っていた。
「腹が立つ」のも「ヤだなあ」も「おもしれえ、ウホウホ」も、「脳ミソ」の中にあると信じていた。
感情は「身体」のこと
ところが、心理のお勉強をしていると、こんなことを教えられる。
はあ? 「体」のこと?
私たちは外界から、見たり、聞いたり、触れたり、嗅いだり、味わったり、という体感覚から刺激を受け、情報を取り込みます
その外界からの情報を「脳」が、快・不快を判断します そしてその結果を、身体に「反応」として返します
出典 感情はどこから来るか|ことほぎ|堀江さなえさん
この脳からの「反応」を身体が受け取ると、身体に感覚として現れます
例えば、体表の感覚が、冷たくなったり、温かく感じたり、または、脈拍や胃や腸の感じ、この体表や内臓の感覚を”ラベリング”したものを、私たちは「感情」「感じ」「気持ち」と呼びます
出典 感情はどこから来るか|ことほぎ|堀江さなえさん
堀江さなえさん(ビリーフリセット認定カウンセラー)は、とてもわかりやすく説明してくださっている。
「身体の反応」 → それに対して、脳が「感情というストーリー」を作る
これとおなじようなことは、心理学のセミナーやブログでも、とてもよく聞いたし、目にしてきた。
ウィキペディアにも、こういう説が記されている。
アントニオ・ダマシオらは、感情を体験・認識することは、刺激に対して発生した身体反応を説明するために皮質が作るストーリーであると主張している。
皮質が、身体の反応を、前後の文脈と照らし合わせて解釈し感情というストーリーを作ったということになる。
出典 感情|ウィキペディア
でもまあ、その「身体の反応 → それに『喜怒哀楽』という名まえをつけている」というのは、なかなか腑に落ちなくて。
要するに、私には、なかなか「ピンとけえへん」かったわけ。
脳のどこでやる気が生まれるのか?|実験で調べると
そしたら、思いがけず、ぜんぜんべつのところから、雷が落ちてきた。
「ほぼ日刊イトイ新聞」での、糸井重里(コピーライター)と池谷裕二(いけがや ゆうじ|脳研究者)の対談。
「やる気」が、湯水のように湧いてくるとエエなあ。
「やらないといけないコト」を、「やる気満々」で、モリモリやりてえのう。
だもんで、池谷さんの「脳のどこでやる気が生まれるのか、調べる実験」に、「ん?」と惹きつけられた。
で、その実験。
何人かにゲームをしてもらう。
そのスコアに応じて、賞金を出す。
ゲーム前に、画面に、コインがランダムに表示される。
1円か100円。
1円ならば、得点の1倍の賞金。
100円ならば、得点の100倍の賞金。
そしたら、100円が見えたとき、すごく気合いが入る。
じゃあ、100円のとき、脳のどこが活動するか、MRIで調べたら、淡蒼球(たんそうきゅう)という部位が活動するとわかったという。
さらに、実験は、もっとおもしろくなる。
1円か100円を、ほんの一瞬だけ映る、サブリミナル映像で出してみた。
「サブリミナル映像」とは、意識の上では「まったく見えない一瞬の映像」。
しかし、ゲーム中の脳を調べると、100円をちらっと見せたとき、脳のやる気の部分(淡蒼球)が反応する。
「体」も「無意識」も知っているのに、知らないのは「自分」だけ
これに対して、池谷さんはこう語っている。
つまり、意識はね、飾りみたいなんですよ。
意識は感じてないんだけど、私たちの無意識って、じつはめっちゃくちゃ敏感で、環境にあるちょっとしたシグナルとか、ささいな変化をきちんととらえている。
出典 脳の気持ちになって考えてみてください。池谷裕二さんとの対談|ほぼ日刊イトイ新聞
で、実験をさらに進めると、
無意識が100円をとらえていても、本人は納得しない。
本人には「見えていない」から、気合いを入れたつもりはないと言う。
しかし、気合いは、コントロールパッドを握る握力で測定できる。
そしたら、サブリミナルで100円が出ると、本人には見えていなくても、たしかに力を込めている。
つまり、私たちの体は正しく反応しているんです。
体は事実を知っている。
無意識の脳、つまり淡蒼球も知っている。
知らないのは自分だけなんですよね。
出典 脳の気持ちになって考えてみてください。池谷裕二さんとの対談|ほぼ日刊イトイ新聞
「体」を見れば「事実」がわかる
ところが、これを「逆算」することもできる。
実験に参加している人は、慣れてくると、どちらのコインかが、わかるようになった。
「いまの100円だったでしょ?」とわかる。
どうしてかというと、自分の手を見ればわかるからだ。
自分の手に、なぜか力が入っていれば「これは100円だ」とわかるのだ。
本人は気づいてないんですよ。
でも、実際には体に変化が出ている。
そういうことを踏まえて考えると、意識がなにかを感じるのは、事実が意識に届くというよりも、自分の皮膚とか体に現れた症状を意識が観察しているという可能性が高いんですよね。
出典 脳の気持ちになって考えてみてください。池谷裕二さんとの対談|ほぼ日刊イトイ新聞
「まず身体ありき」なのに、脳ミソがイバッていると
う~ん、これはもう、「感情」だけではなく、「事実」ですら、まず「身体が知っている」ということだねえ。
ずいぶんショックだった。
というのも、私はどうも「身体を軽く見ていた」からだ。
軽んじていたのだ。
とくにピアノ。
「指を従わせる」
「指を脳の命令どおりに動かす」
「思うように動かない指に、いらだちを覚える」
こういうことを、ずっと感じていた。
しかし、そういう「高圧的な脳ミソ」に対して、「指」は、どうなんだろう?
もしかすると、「指」は困っていたのかもしれない。
「指」としては、ちゃんと脳ミソにフィードバックを送っているのに、「聞く耳を持たない脳ミソ」に不満だったかもしれない。
生物の歴史のうち、80%以上は「脳以前の歴史」だった
脳のはたらきだけを身体とは別の特別なものとして考えすぎるのはたしかに不自然なことなんです。
だって、生命が誕生してから、40億年ぐらい経ってると思うんですけど、脳ができたのって、たかだか5億年ぐらいのことですからね。
そう考えると、生物の長い歴史の80パーセント以上は、脳以前の歴史だったわけです。
出典 脳の気持ちになって考えてみてください。池谷裕二さんとの対談|ほぼ日刊イトイ新聞
ああ、なるほどねえ。
そういえば、「脳ミソより、腸のほうがずっとエラい」とか、どこかで読んだかな。
要するに、ぼくらは身体だけでずっと生きてきていて、ごくごく最近になって、脳というものをつかってみた。
そしたら、つかい勝手がよかったので、だから、うっかり脳に頼っちゃった。
出典 脳の気持ちになって考えてみてください。池谷裕二さんとの対談|ほぼ日刊イトイ新聞
この池谷さんの話のおかげで、私は「脳ミソ偏重」を、本気で考え直すことにした。
もっと「身体」を信頼しよう。
もっと「身体の声」を聴こう。
ピアノを弾いていると、どうしても「身体」と向き合うことになるが、「脳ミソで、手をコントロールするわけじゃない」という認識を持とう。