たしかに「1000個捨て」で激変した
「1000個捨てチャレンジ」の「1000個」という数は、じつに妥当ですな。
やってみたら、1000個超えた時点で、ピアノの調律にも来てもらえた。
それまでは、床可視率10%で、ヒトが満足に歩ける余地すら、なかったのにね。
「他人を呼んでも、だいじょうぶ」というのは、私にしたら大したもので、
調律師さんに来てもらえただけで、大満足。
あとの人生は「おまけ」でいいかも。
これからの人生│こんなふうに生きたい
まあ、その「おまけの人生」だが、ようやく「自分のサイズ」がわかってきたので、なかなかほどよい予定になりつつある。
・週に一度、レッスンに通う。
・年に一度、発表会に出る。
いまのところ、これだけである。
これ以上、なにかを増やすのは、しんどい。
べつに、そう大してやりたいこともない。
たぶん、ふつうのひとたちは、私よりずっとキャパが大きいから、もっといろいろ盛り込めるだろう。
どこか出かけるとか、オンラインでなにかするとか。
でも、そういうの、自分には「しんどすぎる」と、やっとわかったんだよねえ。
そういうのが、ひとつでも増えると、ピアノに支障を来たす。
それがよくわかってきたから、もうぜんぶ「やらない」ことにした。
「1000個捨てチャレンジ」で判明したのは?
「着ない服」「使わないバッグ」「読まない本」とかをバッサバッサ捨てて、すごくよくわかったことがある。
それは、
それどころか、「ほんとの自分」より、「10倍ぐらい大きななにかをデキるはず」と見積もっていた。
ということだ。
だーかーらー、
「モノ」も、10倍ぐらいぎょーさん持っていたんだよね。
それだけ「自分は使いこなせるっ! 使って、やって、いつか『スゴくなれる』!」って、思っていたんだよね。
そんなの、ぜんぶ「まぼろし」だったよ。
ほんま、恥ずかしいけど、
「自分が見積もっていた大きさ」の、ちょうど1割ぐらいが、「ほんまの自分」やったわ。
ピアノの曲も、大幅にダウンサイジング
もともと、オクターブはギリギリだった。
とくに右手は、鍵盤の横っちょから、ほんのわずかひっかかる程度。
だから、中身があるオクターブ和音は弾けない。
たとえば、「ド-ミ♭-ド」は押さえられない。
なので、「オクターブを弾く」ってのは、毎度毎度「二階から目薬」みたいに、「ストレス満載の賭け」だった。
しかし、「オクターブ(ド-ドとか)ぐらいは、弾けて当たり前」と思い込んでいた。
オクターブは「常識」だと思っていた。
けれども、老化が進んできて、指がますます開かなくなった。
結果的に、いまはもう、オクターブは弾けない。
オクターブの和音は、ひとつ音を抜いて弾いている。
それで、なにか支障があるか?
いやあ、べつになんにもなかった。
それどころか、ラクに落ち着いて弾けるようになった。
そうなんだよね。
オクターブをやめたら、メリットばかりで、なにひとつデメリットはなかった。
ハノンのスケールを弾いていても、なんか晴れ晴れしているな、と思ったら、「最後のカデンツで、『オクターブ抜き』だから」とわかった。
自分でも、そこまで「オクターブで苦しんでいた。拷問だった」とは、気がついていなかった。
べつに、だれにも強制されていないのに、「オクターブは、必ず弾けないといけない」と、自分の鉄則にしていた。
これも、まさしく、
からである。
「自分の指の大きさ」を、客観的にわかっていたら、そんなムリはしなかったはずだ。
「自分のサイズ」がわかると、「人生のサイズ」もわかる
どうやら私は、
「モノ」をたくさん使いこなせるほど、スゴい。
ヒトから「スゴい」と言われてこそ、なんぼの人生。
などと、エラく勘ちがいしていた。
そんなことを企んでいるから、しんどいんだよねえ。
いま、ピアノは、すっかりダウンサイジングして、
ああもう、拷問(オクターブ)から解放されたわあ
と、毎日余裕のよっちゃんで練習しているが、そんな拷問、好きこのんで、自分に課していたのは、だれやねんっ?!
結局、そういうのはぜんぶ、日常生活にも反映されていて、
ふだんも「オクターブ拷問」みてえなこと、やってへん?
ってことだよね。
「自分サイズ」で「ちんまり生きる」と、しあわせになれる
まあ、生き地獄みたいだった、パートを辞めたのは正解だな。
「パートが務まるヒト」って、つまり「オクターブがふつうに届くヒト」なんだよ。
私は、「どこのパートでも、仕事がデキない」と長年悩んできた。
でも、ソレって「オクターブが届かない」のと、おんなじだ。
指:オクターブ、届かない。
オツム:パートの仕事、ぜんぶデキない。
うん、でも、それは「そういう仕様設計」だから、そのままでええねん。しゃーない。
ピアノでは、「届かない和音は、音を省いて弾く」。
ちょうど、それとおなじように、「日々の生活も、ムリなことは省く」。
そして、「モノ」についても、「使いこなせないモノは、捨てる」ってことだね。
どうやら、この方向をめざすと、よりしあわせが増すような気がする。