「他人と比べるな」というのは、問答無用の鉄則かね。
あまりにも「まず、それだろ? ヒトと比べるっていまさらなんや、おまい」って感じせえへん?
なので、私なんて、たぶんほんとは腑に落ちていないのだが、ふと他人と比べそうになったら、いや、あかんあかん、それはやめとこ、ってなる。
でも、ほんまは「他人と比べる」、やってるよ。
ほらあ、オクターブ。
たいがいのヒトはオクターブ弾けるじゃん、ちぇっ、つまんねえ、とか。
やってるやってる。比べている。
ほんとに「他人」が気にならなかったら、「オクターブ弾けない自分、ヤだなあ」なんて思わないはず。
それ、オクターブをポンと弾けるヒトなら、こんどは「10度が届かない悩み」とかあるだろうし。
しかしね、オクターブをヒトと比べてクヨクヨしているということは、やっぱり「比べる症候群」なんだと思う。
そもそも、なぜ「比較」がよろしくないのかというと、その先に「自己否定」があるからだ。
あ、だから、べつに「比較」して、ああそうなんだ、ふうんと、なんにも思わなかったり、参考や指標にするんだったら問題ないよね。
でも「オクターブを弾けるのは → いいことだ」と思い込んでいると、「オクターブ届かないのは → よくない」になっちゃう。
届かない自分が「劣っている」と思っちゃう。
こういうの、ほかにもあって「標高3,000m以上の山で、ぜんぜん高山病にならない → いいことだ」とも思い込んでいる。
そしたら「たかが2,500mぐらいでガンガン頭痛がする私は、おもくそダメなヤツ」とか思っちゃう。
それに、わりと「言い訳」にしちゃったりもする。
オクターブ弾けないから、むずかしい曲はやらねーよとか。
高度に弱いから、高い山は登らねーよとか。
だから、「他人と比べる」って、自分でわざわざ制限作って、ほかの可能性や楽しみまでつぶしているかもしれない。
じゃあ、これまたよく言われるように「比べるなら『過去の自分』」てのは、いかがでしょう?
あのさ、これもさ、年寄りはやらんほうがええな。
「他人と比べるな、比べるなら過去の自分」なんてホザいてられんのは、まあ、中年までじゃろ。
もうね、しみじみ思うんだけど、「過去の自分」ってもはや「赤の他人」だよ。
まあ、トシ取るって「徐々に衰える」ことだからねえ。
私は、歯ぎしり防止で、夜寝るときマウスピースをする。
起きたら、そのマウスピースを入れ歯洗浄剤に浸しておく。
で、今日どういうわけか、その入れ歯洗浄剤を麦茶に入れましてな、知らんうちに。
いやあ、マズかったわ、麦茶。
なんで、こないマズいん?思いながら、ゴクゴク。
飲み干したあとに、あれ? なんでマウスピース入れておく容器の水が透明なんだろう?
ああそうか、さっきの麦茶があないマズかったのは、入れ歯洗浄剤が入っていたからか!
でも、そこで「むかしは、こんなマチガイはしなかった」とか、比べないほうがええのう。
オクターブも、以前はギリギリ横っちょから引っかかっていたけど、あ、それもう「他人」だから。
「10年前の自分」は他人、そしたら「1年前の自分」も他人だよ。
だって「1年前にデキていたこと」が、いまデキないってやっぱりあるから。
それどころか、1ヵ月前も他人、いやいや、「昨日も他人」だと思う。
「昨日から連続して自分がある」んじゃない。
「昨日の自分」と「今日の自分」は別人だ。
そうでないと、「昨日の自分」と「今日の自分」とのあいだに、因果関係があると勘違いしてしまう。
ちゃうちゃう。
「昨日の結果」は「今日」には出ない。
いつどうなるか、それはもうわからない。
▼モーツァルトの出だし、3小節。
昨日も今日も、ここをねちねち練習している。
まだまだヘタクソ。
でも、明日は「別人」になって、練習してみよう。
べつに「今日」や「昨日」と比べなくていいからさ。