母との「会話の内容」に悩んでいる。
もともと私は「自分に関係のない話題」が、非常に苦手。
「自分が興味のあるコト」しか、聞きたくないし見たくもない。
だから、ニュースはまったく見ない。
むかし阪神大震災で自宅が潰れて、一時会社の寮に入れてもらった。
そのとき、同僚からテレビをもらい、はじめてテレビのニュースを見たのだが、ほぼ「自分とは無関係」とわかったため、じきに見るのをやめてしまった。
「自分の関心事しか触れたくない」という傾向は年々強まり、しかも、その関心事の範囲もだんだん狭くなってきた。
クラシック音楽だって、むかしから好きだったのに、興味のある作曲家はどんどん減ってきて、いま現在、とうとうバッハしか聞かなくなってしまった。
興味や関心なんて、もちろん自分でコントロールできない。
いまやピアノの練習も、曲としてはバッハのみになり、モーツァルト、ハイドン、ベートーベン、ショパンは、う、弾く気が……。
で、お母さまとの会話。
もともと、同じ話を繰り返す傾向があったけど、90歳ともなると、ますます強化され、同居してから頻回聞く話ばかりになってきた。
新ネタがまったくないわけではない。
とくに、3年間入所していたサ高住の話は、私にとって新しい話題だったが、それもすっかり尽きて、エンドレスで繰り返しになっている。
だれでもそうだけど、「わざわざ話したいこと」というのは、なんらかのエネルギーが乗っているんだと思う。
とくに家族間で話すことは、自由に思い付く内容だろうから、母にとっては「繰り返し話したい」という強い念?がこもった話題にちがいない。
だから、ことに「恨みつらみ」の話題は、むかしから強烈な威力を放っており、それは何十回繰り返されようとも、まるでついさっき起こった出来事のように、生々しく語られる。
おおよそ60年~80年前のことであっても、母は、周囲の様子も含めて克明に記憶しており、どれほどつらい出来事であったのか、長い時間をかけて綿々とうったえる。
さて、この「繰り返しの話」を、私はなかなか集中して聞くことがデキない。
うんざりげんなりしてしまうのだ。
「また、その話かよう、もう聞き飽きたわい」と感じてしまうのだ。
ただ、私が聞くことによって、母の気もちが少しでも軽くなるのならよかろうかとも思っていた。
ところが、あまりにも同じ苦労話が繰り返されるので、思い切ってこう尋ねてみた。
「いまのお話ね、話す前と話した後で、なんかこう、少しでも気分は変わった?」
「ううん、ぜんぜん。なんにも変わらない。
恨みは一生消えないよ」
「じゃあ……また話してみたい?」
「そうだね、何回でも言いたいよ。
春ちゃんはイヤだと思うけど、ほかに聞いてくれるヒトいないしね」
なるほどねえ。
まあ、話すことで変化があるのなら、とっくのむかしに止めているかも。
で、思ったんだよ。
そういう「同じ話」であっても、私が「はじめて聞くかのように振る舞う」のが、ま、思いやりかなあって。
そもそも日常生活だって、同じことの繰り返しである。
私は、それがメンドくさくて、ずるずる後回しにしてきたが、最低限の家事は必ずやらないといけない。
いまの母は、むかしとちがって、私にやさしくしてくれるし、いつもニコニコしている。
そんなふうに変わってくれた母なので、せいぜい困るのは「同じ話の繰り返し」ぐらい。
その程度のことは、私こそが「おおらかになってみる」のが必要かもしれない。