90歳の母と同居してほんとうによかったのか?

日々のあれこれ

母と同居してよかったのかどうか?

じつのところ、「100%よかった」とは思えない。

それが実感。

私も母も目覚ましをかけない。

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私は、目が覚めて時計を見ると、たいてい5時少し前だ。

母が起き出すのは、早くて5時過ぎ、遅いと5時40分ごろ。

その母がトイレに行った2分後に、私は起き出して朝の用意をはじめる。

この「自分が目を覚ました時刻」から「母がトイレに行く時刻」のあいだに、さまざまな思いが浮かんでくる。




私は長年、気ままなひとり暮らしをしてきた。

起きるのも寝るのも、その日の気分次第だった。

その「自由」は、もう失われたんだなと、やるせない気分になる。

しかし、むかしの自分の生活は、昼夜逆転が当たり前。

たいていユーチューブやネットをダラダラ見つづけて、寝るのが深夜3時や4時。

当然、起きるのが昼前。

食べるのがメンドくさくて、コーヒーに砂糖を何杯もブチこんで、パソコンの画面をぼーっと見ながら適当に飲み干す。

なにも食わないわけにいかねーから、しかたなく夕方コンビニに買い出しに行く。

食事だけでなく、ありとあらゆることがメンドくさくて、洗濯やシャワーは月1回に成り果てる。

掃除はいっさいやらない。




音出し可のマンションに住んでいたころは、日中にピアノを弾けたけど、その時間すらズレこんで、結局夜中に電子ピアノで練習するありさま。

ごくたまに、昼夜逆転を矯正したくて、「日々30分、起床就寝時刻繰り上げキャンペーン」とかやってみるけど、あっという間にズルズルーッとふたたび昼夜逆転。

「ちゃんとした人並みの生活」をやってみたいのに、まったく実行できなかった。

そのころもいまも、いちばんやりたいことはピアノだったのに、そのピアノのために生活リズムを整えることも不可能だった。

丸々24時間を「自由」に使えるはずなのに、まったく自由じゃない。

毎日たっぷりもらえる「時間」を、なんの役にも立てられず、むざむざ捨てていくようで、無力感ばかりが増していった。

そう、当時は「無力感、無価値感」がとても強くて、ソレに打ちのめされていたね。

でも、母といっしょに暮らしたら、そいつら、いっぺんになくなったんだわ。




だって、毎日ニコニコして「ありがとう、うれしいわ」って言ってくれるばあちゃんがおるわけで。

ほんまに「他力本願」だけど、ああ、そんなふうにヒトに言われるだけで、気もちって一変するんだ。

根っこの「無力感、無価値感」が消失したかどうかは不明。

だが、少なくとも「漠とした空しさ」は、まったく感じなくなった。

ふしぎ。

ヒトの存在は偉大。

だのに、こんどは「不自由だ」って文句を言いたくなる。

勝手なモンです。

けど、総合的に「私の満足度」は上昇した。

長年の望みだった「ちゃんとした人並みの生活」が手に入り、かつ「無力感、無価値感」から解放されたからね。

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