私は、とまどっている。
これほど落ち着かないのは、はじめてのことだ。
母が、生死の境目にいることに、とまどっているのだ。
けれども、まだまだ生きて欲しい。
そして、母自身も、それを望んでいる。
だから、すでに行なわれている「延命治療」で、それでいいのだ。
けれども、母の「身体」には、酷じゃないだろうか?
そういう思いが、どうしても湧いてくる。
ネットで「老衰」を、ウロウロ見ていたら、母はすでに「老衰」ではある。
つまり、じきじきに「お迎え」が来て当たり前なのだ。
でも、幸か不幸か、アタマがしゃんとし過ぎている。
アタマと身体が不釣り合いで、だから、とまどうのだ。
これで、ある程度認知症だったら、ああ、老衰か、だったらしかたない、とあきらめがつくかもしれん。
そもそも認知症だったら、いまどういう状況なのか、本人がわからない。
末梢点滴、経鼻胃管、胃ろう、さあ、どうする?
なんて、ご本人がよくわからなくて、じゃあ、家族さんが決めようね、となる。
しかし、母は、まだまだ生きる気満々なのだ。
ソレについていけないのが、母の「身体」のように思える。
おとつい、母を見舞ったとき、枕頭台が散らかっていた。
几帳面な母が、そんなふうに散らかしているのを、私は見たことがない。
だが、
「春ちゃんの手紙は、引出しにしまってあるのよ」というので、中を見ると、そこには整然と手紙が収められていた。
引出しの下にあるタオル類は、きれいに畳まれていたが、そのうえにカーディガンは、無造作に脱ぎ捨てられている。
ああ、そういうのをキチンとしたくても、もう身体が動かないのだろうな。
目に宿る光や表情、口ぶりはしっかりしていても、身体のほうは、かなり不自由そうだった。
困った。
なんだか、「身体」はもう「おさらば」したいように見えた。
しかし、強固な「意思」が、それを阻む。
困った。
母の老いさらばえた「身体」は、胃ろうの手術に耐えられるのだろうか?
そして、術後の痛みを乗り越えられるのか?
ああ、S山先生が言われていた、
「……なんか、やっぱ、まちがっているような気がするな」というのは、この違和感のことかもしれない。