今回、母が延命治療をしたことにより、私には、非常にたくさん「与えられたモノ」があった。
まずなによりも、母が「生きていてくれる」こと。
いま現在は、しんどいこともなく、胃ろうで栄養をとって、ちゃんと生存している。
コレが、じつは「当たり前」じゃなくて、去年あちこち頼みに行った成果でもある。
つまり、意外なことに「行動すれば → 望みのモノがちゃんと手に入る」のだ。
もちろん、胃ろう造設を引き受けてくれたA病院のおかげだし、
さいしょは延命に消極的だった主治医先生も、その後は、すぐに延命治療に取りかかってくださった。
けど、「欲しい!と思ったら、即行動」って、へええ、それでいいんだ、と感心している。
「こうしたいんです!」って宣言したら、ものすごくおおぜいのヒトが動いてくれたことにも、驚いている。
あ、そういうモンなんだ。それでいいんだ。
どうせダメだろうとか、運が悪いとか、やりかたがわからんとか、スネる必要ないんだ。
と、これまたあらためて感心している。
そして、母に対して、自分がどう接したらいいのか?も、目が開かれる思いがした。
親離れできていなかった私も、ようやく目が覚めた。
「生きていてくれてありがとう」という気もちに、やっとなることができた。
「生きているだけでいいです。
なにをしようと、なにを言おうと、なにができなくても、ぜんぶできなくなっても、
ただ生きているだけでけっこうです。ありがとう」と、やっと思えた。
でも、いまごろ、そう思うってことは、やっぱりこれまで「母をコントロール」していた証拠だ。
なるほどねえ。
ってことは、他人に対しても、もちろんコントロールしたくて、やれ上だ下だと、ドンパチやってたんだねえ。
そういうの、ぜんぶ地続きだもんね。
母に対して、まったく真っ白真っさら、期待のキの字もありません、ってなったら、
他人に対しても、おんなじで、はは、だれを目の前にしても、
やあ、私に出会ってくれてありがとう!になっちまった。
わはは、歩道歩いていて、自転車がスレスレで追い越していっても、
やあ、ご縁だね、ありがとう!
しまいには、モノもうれしくなっちゃって、ガソリン入れたら、
わあ、自分で油田探して、石油運んで精製しなくていいんだ、ありがとう!
トイレ行ったら、
わあ、腎臓さん、今日もおしっこ作ってくれてありがとう!
やっぱり「お母さん」は最強だ。