「好き」とか「憧れ」といった感情は、たぶん「本来の自分」が発しているものだろう。
だから「自分が好きなものはなんだろう?」と問いつづけているうちに、自分らしい生きかたを見つけることができる。本来の自分に立ち返ることができる。
私は長いあいだ「自分の考え」を持つことを禁止されていた。
禁じたのは、私の母である。
母は生い立ちが不幸であったため、母自身が「自分を押し殺して」生きることを強いられた。
そのため「子どもに自由意志があること」を認めることができず、子どもが母親の言いなりになることこそ理想的な親子関係だとかたくなに思い込んでいた。
私は、そういう母の希望をかなえて母をしあわせにしたいと願ういっぽう、ありのままの自分をいっさい認めない母を心の底から憎んでもいた。
それでまあ、ぐちゃぐちゃどろどろの母子癒着ごっこを延々半世紀以上にわたってくりひろげてきた。
さて、数年前からカウンセラー先生に介入してもらったおかげで、2年9ヵ月前にようやく母から離れることができた。
そしていまでは、母なりに無償の愛をそそいでくれたと感謝もできるようになり、同時に、母の介護はいまの自分には重荷なのであっさり放棄した。
しかし、あまりにも長いあいだ、自分を否定されつづけてきたので、私には「だれかから肯定される。ありのままで認められる。味方になってもらう」ということがよくわかっていないようだ。
今日はひさしぶりにKさんと会った。
聡明で、それでいてユーモアもたっぷり持ち合わせている才気煥発な彼女と話していると、楽しくてたまらない。
聞き上手な彼女に甘えて、私はついつい自分の話を長々してしまう。過去にやらかした「ケツ割り歴」をゾロゾロ告白してしまう。なにをやっても長続きしない私。
Kさんはちょっとおもしろそうな顔をしていたが、やがてこう言った。
「いいんじゃない? 春子さんはたんぽぽの綿毛で。ふわふわただよっているのが春子さんなのよ」
「ええ~っ? そうかなあ? よくないよ、こんなことばっかりしてたら」と私はダダをこねてみる。
「いいよいいよ。でも『継続』っていうのも大切かな」
Kさんはしずかな語り口で、彼女自身が体験した「継続」のもたらす効果を淡々と話してくれた。
しかしそう言いながらも、けっして私を否定しない。そんな匂いはみじんも漂ってこない。ただ、こういうこともあるんだよとやさしく語るだけ。
彼女の深い思いやりに感動した私は、生まれてはじめて、そうなのか、それじゃあこれからは「継続」を真剣に考えてみようと思った。
Kさんの話すことが、私のココロに沁み込んでくるのはなぜか?というと、それは私がKさんをとても信頼しているからだ。
なぜ信頼しているか? そのいちばんの理由は、彼女の作り出す作品があまりにもすばらしいからだ。
この理由は、じつのところ少し苦しく感じている。ひとを信頼するのに、ほんとうならば理由はいらないはずだからだ。
しかし私のホンネに正直になれば、やっぱりそのひとが生み出す作品であったり、生きかたであったりが、私にとっては重要な要素なのだ。
だから、私という人間は、すぐれたクリエイターやパフォーマーに惹かれて、そういう卓越した能力をそなえているひとを強く信頼する。
で、これは結局、単純にKさんやカウンセラー先生のことが「好き」だからなんだろうなあ。
「好き」という感情は、まちがいなく「本来の自分」に導いてくれるんだなあ。
親離れしてからようやく3年になるけれど、はじめて自分みずから「継続」を意識した。
もしかしたらほんの少しオトナに近づいているのかもしれない。