そして今日、自分のフェーズが変わった

朝、目が覚めたとき、なにかがちがった。
目覚ましは7時にセットしているのに、このところずっと早朝覚醒で4時ぐらいにパチッと目が開いてゲンナリしていたが、今朝は6時にふっと目が覚めた。

まっさきに気になったのは手の具合だった。やっぱりまだ鈍痛があった。
しかし、ああ痛いね、でも痛いだけだよねと思うのみで、そのままベッドに横たわっていると、とても安らかで満たされた心地になってきた。

それはとても不思議な感じで、「理屈で考えること」はすべて停止していて、ただ「感情」だけが存在しているような状態だった。
そして、しあわせだった。ひそやかな幸福感につつまれていた。

しばらくしてから起き出して、朝のしたくに取りかかる。今日は出勤日だ。
おどろいたことに、それほどイヤな気分にはならなかった。少しばかりめんどうだったが、淡々と用意をして早めにウチを出た。

外は澄み切った青空がひろがっていた。
街路の木々は、新芽がふくらみかけていて、淡いグリーンが朝日に輝いていた。
遠くの山並みも、いつも以上にのびやかな稜線を描いていた。

ああ、すべてのものがなんとうつくしいことか!
これほどまでにうつくしい世界に、私は生きているんだなあとただ感動した。

会社に着いて、仕事場へ行ってからも、フワフワした心地はつづいた。
おとついの記事で「仕事と自分のあいだに『境界線』を引く」と書いたけれど、自分で意識して引かないでも、それどころか勝手に遠ざかっていた。

自分の周囲に、まるでごく薄い透明バリアがあるかのようだった。
職場もヒトも、自分とはべつの次元にあるような感じだった。

それなのに、私は仕事と「対立」はしていなかった。
それとは反対で、むしろなごやかに自然にとけ込んでいた。だから、気も張らなかったし疲れなかった。

私より数ヵ月先輩の女性が、私のためにわざわざ備忘録をつくってくれてきて、ファイルごと渡してくれた。
その十数ページの備忘録には、色分けしたマーキングまでていねいにほどこされていた。

私のために自宅で時間をかけてこんな資料をつくってくれたなんて、とてもびっくりして、私は彼女に何度もお礼を言った。

けれども、そのことはその場かぎりで過ぎていった。
もちろん彼女の好意はうれしかったが、以前の私とはちがって、その出来事に過剰に反応することはなかった。

ああ、これが「境界線」を引けているという状態なんだなとはじめて実感した。

そして帰る道すがら、どうしてこんな心境になったのだろうと考えたが、いやもう、その理由は「感情」が教えてくれていた。
私は、透明で純度の高い「しあわせ」を感じていたので、ああそうなのか、これが「本来の自分」を生きているということなんだなと悟った。

だから、これからどう生きるのか、その具体的な方法は、ただ魂の声に耳をかたむけたらいいだけだ。

たぶん私は、「表現する」ということに憧れているのだと思う。

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