前記事([録音] バッハ:シンフォニア第1番 ハ長調 BWV787|先生に1回しか聞いてもらえなかった哀れな曲)で、ワシのYouTubeをあつかましくも宣伝したけど、すっごくおおぜいのヒトが聴いてくださって、本当にありがとうございます。
たぶんきっと、ふだんクラシックを聴かないヒトもわざわざ再生してくれたみたいで、いや、ヨタヨタの演奏で申し訳ない。「ホンモノ」のクラシックはもっとキレいなんです。こんなんじゃないので、ガッカリせんといてください。
でも「高評価」のボタンを押してくれたかたもおられて、しみじみうれしかったです。
それはもう「愛」ですからねえ。
「真心」ですもんねえ。
ワシは、根本的に寂しいんです。
「愛」に飢えているんです。
なぜかというと、「生まれてきて欲しくなかった子どもたち」の末裔だからです。
まず、ワシの母ちゃんが「生まれてきて欲しくなかった子ども」でした。うっかりまちがって「出来てしまった子」だった母ちゃんは、4才のときにやっと出生届を出してもらってました。でも、6才のときに実の母親に捨てられました。
そして、父方のばあちゃんもまた「生まれてきて欲しくなかった子ども」で、父無し子として生まれたのち、ヨソのウチにもらわれて育ちました。
このふたりの「恨みつらみ」は壮絶でした。
ワシは両親からずいぶんと殴られたり蹴られたりボコボコにされてきました。オトナになってからは、ワシも妹も相当な額のおカネを取り上げられました。
でも、心理学を勉強してきたいまでは、「恨み」っていうのはじつは「愛」なんだなあってわかりました。
「大嫌い」は「大好き」のウラ返しなんですよね。
それほどまでに、母ちゃんもばあちゃんも自分の親が大好きだったんだ。
子どもはみんな親が大好き。
そして、親もまた親なりにせいいっぱい子どもを愛している。
母ちゃんの実母も「6才まで育てる」というのがやっぱり「愛」なのだと思う。それが彼女なりの「愛しかた」だったんだといまはわかりました。
ばあちゃんの実母はといえば、ばあちゃんを「産んだ」ということが「愛」なんだねえ。どんな気もちであれ、おなかに宿った命をこの世に産み出したということ自体が「愛」です。もうそれだけが「親の愛」というカタチもあるんです。
ただ、そんなふうな親たちのおかげで、ワシはヒト様からかけられる「愛」が涙出るほどうれしい。
それでね、「愛」のうつくしさは「音楽」に凝縮されているような気がするんです。
だから、ピアノを弾きたいんです。
つたない演奏だけど、それでも聴いてくれるヒトたちと「想いを共有したい」。
この世に生を受けるってなんてすごいことなんだろう! 奇跡だね!
なぜ、いまココにいっしょにいるんだろう? すごいことだね!
っていう想いをいっしょに分かち合いたいんです。