カウンセラー養成講座にはじめて参加した2日間だったが、もっとも印象に残ったのは、カウンセラー先生のまなざしだった。
最後にライブセッション(みんなの前でのカウンセリング)が行なわれたけど、本当にねえ、先生が相手のかたを見つめるまなざしが慈愛に満ちていて胸を打たれた。ああ、これこそがだれかを愛するという佇まいなんだと思い知らされた。
なんだかね、ずっと前からときどき思うんだけど、宗教家のかたみたいに見えちゃうんだよね。
それから、やっぱり音楽を感じる。じっさい音楽家でもあるからだが、深遠な演奏を聴いているような心地に通じるものがある。緩急とか間合いが絶妙だし、音楽みたいな流れがある。
そしてつくづく思う。「真実を追求する姿」はうつくしいなあ、尊いなあって。
それはねえ、ピアノの先生にも感じることなんだけどね。まあ、おこがましいことばかり言って恐縮なんだが。
けれども、ワシがそんなふうに「真実を追求するヒト」に惹かれるのには、わかりやすい理由がある。それはもうごく単純なことで、父ちゃんがそういうヒトだったからである。父ちゃんは、芸術家とか学者をとても尊崇していた。音楽が好きだったから、作曲家や演奏家にもものすごく敬意を払っていた。
いまからちょうど50年前はベートーベン生誕200周年の年だった。ワシは8才だったけど、その当時の父ちゃんの様子をよく覚えている。熱情ソナタの自筆楽譜をワシにも見せて、「このシミは、馬車のなかで嵐に遭ってできたヤツや」とボソボソ説明してくれた。
ハイリゲンシュタットの遺書の自筆本(当時はファクシミリと言っていた)も買っていて、父ちゃんがひとりでじーっと眺めているのを見かけたこともある。いま思うと、きっとその遺書を書いたベートーベンに思いを馳せていたんだろう。音楽家なのに聴力を失って一時は遺書まで書いたということが、自筆原稿を実際に見て考え込むほど、父ちゃんにとっては一大事だったのだ。
父ちゃんがそんなふうになったのにも、ちゃんと理由があるのだが今日は割愛。
そういう父ちゃんの背中を見て育つと、やっぱりマネしたくなるね。おんなじことしたくなる。まあ、もうやってる。だから、ピアノを習いに行くし、カウンセラー養成講座に通う。父ちゃんがベートーベンの遺書に見入って感じていたようなのと似たような気もちを、ワシもいま味わっているよ。