もともといっちゃん好きなのは「山」である。それは、いま現在でもまったく変わらない。まあ厳密に言えば、「私に『至福のよろこび』を与えてくれるのは『山』」である。
そういう基準で測ると、ピアノはねえ、楽しいっちゃ楽しいし、おもろいっちゃおもろいし、とくに「ヒトのつながり」ができるので、はい、たしかに山とは異なるよろこびがあるけれど、「至福」はそうそうないわ。将来ぜったいないとは言い切れないけどね。
ところが山はねえ、深田久弥がさ、あの『日本百名山』を書いた久弥がさ、「百の頂に百の喜びあり」というとおり、どこの山行ってもほぼ必ず「至福のよろこび」に浸れる。ただし、私の場合「天気が良ければ」ね。雨でも楽しめるヒトおるけど私はムリ。どピーカンの晴れ、大好き。
晴れてたら、低山でも「至福」ね。金剛山(1,125m)でもじゅうぶん。二上山(517m)でもかましまへん。そのぐらいの山でも、か な ら ず ま ち が い な く し あ わ せ に な れ る。ただし晴れてたらやで。
けどさあ、ピアノどないやねん? あれ、自分で弾いとって「かならずまちがいなくしあわせ」なんて、え?どんな条件考えたらええの? 山の条件はひとつだけ。晴れてたらよろし。「明日はおだやかに晴れるでしょう」ってコトバが大好物だった。
なので、「楽器演奏が趣味」というヒトたちはものすごいなあと感心する。いや、私もピアノを趣味にしたわけだが、山とくらべるとさ、「勝手に降ってくるしあわせ」「無尽蔵のよろこび」「あの透明な美酒のような幸福」とか、そんなもんからほど遠くてね。
あのー、せいぜい「曇り空」「小雨」ぐらいがデフォルトかね。雨ていどならマシなほうで、どうかすると暴風雨とか雪崩とか大崩壊とか、「災害」に見舞われるほうが多いやんけっ?! あのさ、山はね、天気予報さえ見といたら「かならずまちがいなくしあわせ」になれるというのに!
まあ、「ピアノの弦が鳴っている状態」ってのは、いいなあと思う。そういう現象はたしかにいい。だからべつに練習はおもろいよ。それから、曲の時代背景とかもおもしろくなってきた。もちろんレッスンはいつも楽しい。ありゃあ、先生ご自身が「至福のよろこび」をよくご存じだから、そのお裾分けで楽しいのさ。
でも、本人が弾いてる分には「ちょぼちょぼ」っス。そう、山とくらべたら「ちょぼちょぼ」の「ぼちぼち」。だいたい「晴れた」ためしない。ピアノで「雲ひとつない快晴」ってどんなんっ?!
妹にはときどきエラそうに言うてるけど、「ピアノ弾けなくなってもぜんぜんかまへんで。一週間したらすっかり忘れて、また二上山トレーニングや」って、たぶん一生変わらんと思う。
それだのに、いまピアノをつづけようと思っているのは、某芸術大学に進学したいからだよ。進学だけではなく、「受験に至るまでの過程」とかをぜんぶ経験したくてやってるんだよね。
するとさあ、ちょっとヤバい。ホントのホントに純粋に「自分自身」が欲しているのかどうか、ヤバいんだよ。だって、ウチの両親は非常に学歴を気にする連中だったんで。
つまり、もしかすると「親に認めてもらいたいから」という理由で、大学進学に「執着」しているだけかもしれない。単なる「学歴コンプレックス」が原動力かもしんない。
ってなことを、バイオリニストのYさんにうだうだ話したら、Yさん「いいんじゃない? いま行きたかったらそのままでいいし、とちゅうで『ちがう』って思ったらやめたらいいし。でも、ピアノ弾いてる春子さん、すごくぴったりしてる」
へええ、ありがとうございます! そだねー。私も、某芸大に行きたい気もちはいちども揺らいだことないから、このままの路線で行こうっと。ちょぼちょぼってのは、ま、子どものときから知ってるからいまさらねえ。
ちょぼちょぼよたよたで、しかもときどき大崩落とか滑落とかエラい目に遭うのだが、それでもやめるつもりがないのは、おそらく「山の至福」を知っているからだろう。だいじょうぶ、このさきどんなことが起こっても、あそこに帰れるから。
そんなにも愛している「山の至福」を、もしできることなら、ピアノでだれかにちょっと伝えてみたいから。
こんなにうつくしい惑星に生まれてよかったねと、いっしょにうなずきたいから。