ふいに「恐ろしいモノ」に囚われてしまった。
それは「すごい形相で睨まれている」というヤツだ。
ここしばらくあまり思い出さなくなっていた。しかし二日前の記事「『お許し』が出ていないのでへっぴり腰なんだが」に対して、あらいかずこさん(ビリーフリセット認定カウンセラー)がこんなコメントを書いてくださった。
「(略)……、すごい形相で睨まれる妄想が働くんだよね。……(略)」
私はそれを読ませていただいて、虚を突かれた。凍りつくような思いがした。
あんまりびっくりして、もうあらいかずこさんにそれ以上なにも訊けなかったよ。
私は、そうなんだよねえ、何十回も何百回も「すごい形相で睨まれた」もんだよねえ。
憎々しげに睨まれたねえ。
おまえのせいで私はこんなに不幸だと、うらみつらみを込めて睨まれたねえ。
「死ね!」と言われるに匹敵するような睨みかただったねえ。
あれを向けられるとね、なにもできなくなるね。すべての気力をうばわれるよね。
そして、「罰」として「私はしあわせになってはいけない」と思いますわな。
けれども、いま現在、母ちゃんが睨んでいたのは「私ではない」とわかっている。
母ちゃんが睨みたかったのは、自分の実の母親だったんだよね。
自分を6才のときに捨てた実母を、睨みつけてやりたかったんだと、いまはわかるよ。
ここ半年ほどかな、だれかが私に怒っているとき、ああ、その怒りは「私に向けてではない」とうっすら気づくようになってきた。
だってヘンだもん。
そんなにすごく怒られるようなこと、私はしていない。
そんなとき、相手のひとの言うことを注意深く聞いていると、ああほらほら、私が使っていない「ことば」をアナタはしゃべっているね。私、そんなこと言っていない。
それをアナタに言ったのは、私じゃない、いまじゃない。
むかしのことだね。
むかし、アナタがあのひとに言われたことだよね。
アナタはそのときひどく傷ついたんだ。
そして、いまもまだ辛いんだ。
だからそんなにも肩を落としているんだ。
嘆いているんだ。
そいで、たまたま目の前にいる私に、投げてみたくなったんだ。
こいつにならぶつけてええかなってふいに思ったんだ。
って母ちゃんも思ったわけだよ。
なんか上目遣いで押し黙ってるもんだから、なんだよ、このガキ、その目つきはなんだ、ブン殴られたいのか、おう、殴ったるぜ。
まあ、そうなるわな。
「殴られる」ということによってすら、私は「かまってもらいたい」んでね。
ちゃんと「需要と供給」がマッチしている。
でも、「睨む」とか「殴る」とか、それって「とても悪いこと」です。
はい、アナタは「悪い子ちゃん」です。
だから、私は「いい子」です。「悪い子にいじめられるいい子」なんだ。
って、私は「被害者」として「私、かわいそうなんです。悪いのはあいつです」と自分を正当化したいから、ああ、ずーっと「被害者」でいたい。ずっと子どもでいたい。
って、それってマジかよ?
なんかちょいちがうような気がする。
このまま「ずっと子ども」だと、なんですか、あのママチャリこいでるちんたらツェルニーみたいに、永遠に「ホンモノの世界」を生きられないような気がする。
そうそう、なんかちっとも「本気」出せないみたいで。
たぶん、子どもがおとなになるときって、「本気」出すんじゃないかな。
もう子どもの世界に訣別しよう、私は私のやりかたで本気出すって踏み出すんじゃないかな。
高速道路はクルマで100キロ出すんだよ。免許取ってクルマ乗って走るモンで、もろもろこなさないと走れない道路なんだよ。
そっかー、おとなになるってそういうことかー。
じゃあ、おとなやってみたいかな。
おとなやるんだったらね、またアノ恐ろしい視線を思い出したときには、あ、それ、私じゃないよ、ぷ、それ、もっとずっとむかしのひとに返してね、ぷぷ、ってちょっとにっこりしてみよう。
それがおとな。