「指の動き」に特化して、雷に打たれたかのように目が覚めた。
ああ! こういう練習をしたら指は動くようになるんだな!とわかって、それはいっちゃんうれしかった。
しかし同時に「これまでがどうだったのか?」ということにも気づかされた。これは、かなりイタい事実なのだが……
結局、私は「ピアノの基礎」ができていなかったんだよね。
だから、テンポを上げられないし、音のツブがそろわないし抜けるし、強弱もつけられない、歌えない、装飾音が入らない、声部の弾き分けができない。
するとどうなるか?というと、本人も聴き手もしんどいのである。ちっとも楽しくない。おもしろくもない。ガマンしているだけなのだ。
そんなピアノの弾きかたでええんかね?
そこなんだよ。
そこをさ、ゴマかしていたんだよね。
だれかに「どんなピアノを弾きたい?」って訊かれたとする。
そしたらきっと「いやあ、まあ、トシもトシだし、まあ、そこそこで、それなりで、ま、自分が楽しかったらいいっす」と答えていただろう。
どうしてそこらへんの高さにしているかというと、要するに「失敗したくないから」である。もっと掘ると「だれかから、なんやかんや言われたくないから」である。とりあえず「無難な看板」をかかげておいたらええやろと思っていた。
けれども、雷落ちちゃったからねえ。
あのー、雷落ちるとさ、「アホ」になるんだよね。あ、もとからアホなんだが、よりいっそう重篤になる。
アホになると、失敗も成功も吹っ飛ぶんだよ。ひとがどーのこーのも関係ない。そんなんぜんぶ消し飛ぶ。ゼニの勘定もできなくなる。
アホのスイッチが入ると、やりたいようにしかやらなくなる。
日本三百名山完登をめざしたり、北海道80日間車中泊放浪したり、持ちマンション売って音出し可の賃貸に引っ越したり、とまあ、アホ丸出しだが、もうそうしかできないからね。
雷落ちてアホになるってそういうことなんだよ。
なので、今回見舞われた落雷により、どんなアホになりたいか?というと、
「自由自在に動く指を手に入れたい。イメージ通りの音を出せるようになりたい」のだ。
そのために「基礎をみっちり習得したい」のだよ。妥協せずにね。
私は、いちおう13才までピアノを習っていたので、ある程度「基礎」がどういうものかわかっているつもりだった。そして、レッスンを再開して2年経過し、まあまあ「基礎」はできたような気になっていた。
でも、ちがった! 大まちがい!
まだまだぜんぜん「基礎」ができていなかったんだ!
自分に甘すぎたわっ!
ふっふっふ、そんな過去はどうでもええねん。
これからじゃよ。
これからアホになって練習したらええねん。
私は、日本三百名山でも北海道放浪でも、一生忘れられない絶景に何度も出会った。
この時に、この地で、この光景を見るために生まれて来たと思える、その実感をとてもよく知っている。
詩人の尾崎喜八は、それを「あの透明な美酒のような幸福」と呼んだ。山のお花畠で憩うよろこびのことだ。
私は、その幸福をピアノでも味わってみたいのだ。