結局、じゃあどうしてピアノをだれかに聴いてもらいたいのか?

とどのつまりソコなんだけど、以前2019年3月29日に書いた記事「よりによって『この私』がピアノを演奏する意義」のときと、ほとんど気もちは変わらないっス。

すでに名演奏があまたあるのに、なんでワシが演奏披露するねん?って、ずっとずっとまえは思っていた。が、去年の3月、まだピアノレッスンを再開するまえに、「いや、ええんちゃう? だって『生きている』ということ自体にどうしようもなく感動していて、それをだれかと分かち合いたいんだし」と思いはじめたからだ。

いま現在、もっとオノレの気もちに忠実になると、いちばんの理由は「寂しさ」だ。「寂しい、虚しい、やりきれない」という思いを自分ひとりでは解消できないのだ。だから、こうしてブログを書いている。

でも、文だけでは伝わりにくいなにかがある。「寂しさ」はなかなか書き切れない。そして「山では楽しかったよ~」とか「いまのピアノの先生がすばらしいんだよ~」とか「ピアノ再開できてホントによかったよ~」とか、結局「生まれてきてホントよかったよ~」ってヤツは、文章ではうまく表現できない。

けれども、そういう抽象的なすっごい感動って、やっぱり「音楽ならダイレクトに響く」ような気がする。いやまあ、まだまだちゃんと伝わるようになんて弾けてないけどね。



でも、めざしどころはそういう感じ。「共鳴」してもらえたらうれしいかな。「共感」じゃなくて。すでにひとりひとりが感じている「あのこと」に「共鳴」し合えたらいいなあ。

みんなでいっしょにこう思えたらいいなあ。
「生きる」ってなんてすごいことなんだろう!って。
ここでこうして、みんなでいっしょにこの世に生きているって、とてつもなくすばらしいことだよね!って。
そして、「上」を見上げたいんだ。みんなで「天」をあおいで、ああ、そういうことなんだね、私たちは「生かされているんだね」って。

山のなかでたったひとりでいたころ、ものすごく満たされていた。山ふところにいだかれて、ああ、守られているんだなあ、生かされているんだなあってヒシヒシ感じた。でも、山から降りてくるとそういうのは消えてしまう。寂しさや不安がフッと忍びこんでくる。

それをひとりで抱えているのがしんどいから、ブログ書いてピアノ弾く。



明日は「奇跡」みたいな日だね。ピアノの発表会なんだよ。
先生がこう言われていた。「おおぜいのひとのまえでピアノを弾くってものすごいことなんですよ」

ああ、はい、ワシもそう思とります。すごいことです。これまで一度も会ったことのないヒトたちのまえで、数分間じーっとオノレの演奏に耳を傾けてもらえるなんて、ちょっと信じられないことです。

あんまりすごすぎて、ちょいと壊れそうっス。さっき、お辞儀の練習とかもやってそのあと弾いたりしてたけど、明日ホンマにそれを実演すんのか?!って思ったら笑いが止まらなくなった。いやまあ、うれしすぎて。それにいろいろ思い出して。

ワシがまだ母ちゃんのおなかのなかにいるとき、父ちゃんと母ちゃんが「生まれたコが女のコだったらピアノ習わせようね」って話していたこととか思い出して、泣けた。

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