このところ、母の話題が、やや変化してきた。
以前は「むかしの苦労話」が圧倒的に多かった。
とくに、幼少期から二十代にかけて苦労した話を、綿々と繰り返していたものだ。
また、お姑さん、小姑、夫(私の父だね)に対する恨みつらみも激しく、ほぼ毎日、エンドレスで罵倒し、呪いのことばを口にする。
あのー、みなさまがた、すでに鬼籍にお入りになっていて、いまさらなんぼ呪ってもはじまらんのですが。
こういった「むかしの苦労話」は、私が中学生ぐらいから、よく聞いていた。
なので、すでに数百~数千回レベルで聞いているハナシばかり。
ソレをだな、やっぱりいまも繰り返し話せるって、ある意味、おもくそ根気があるっちゅーか。
ああ、そやな、私もピアノの練習、そのぐらいせんとあかんな、とか思たり。
けれども、私も以前とはちがって、同じ話を聞いても、「即うんざり」みたいな反応はやめた。
もう「話の内容」は、気にしないことにしたのだ。
そうではなく、90年生きてきたヒトが、いま目の前で「一所懸命、話している」という事実を、あるていど重んじることにした。
母は、べつに私のリアクションを期待しているわけじゃない。
さらに、自分が話をして、「自分の気もちに変化が生じること」も、まったく期待していない。
ただただ「話したいだけ」なんだな。
さて、いま現在、母の関心は「巻き爪化膿の痛み、老いていく辛さ、上の階の騒音」である。
なので、ここらへんについて、まんべんなく訴えることが忙しい。
だいたいは「心配、不安、怒り」に帰着する。
それでね。
そういう母の話を聞いていて、私、じつはイヤだったんだよね。
なぜイヤだったか?
そこんとこが、自分でもなかなか気づけなかった。
でも、やっとわかった。
それは「『心配、不安、怒り』という感情」が「良くないことだ」と、決めつけていたからだ。
心配したらいけない。
不安になったらいけない。
怒ったらいけない。
と、そんなふうに「私自身が感じてはいけない」と、自分に禁じていたんだよねえ。
だもんで、「心配、不安、怒り」をまき散らす母ちゃんを、不愉快に思っちゃったんだ。
母に対してさ、
「あたしがガマンしてんのにさ、
おまいが心配だの不安だの怒るだの、好き勝手すんなよっ!
おまいもガマンせんかっ?!」ってね。
あーあ、やっぱりそういうことか。
そうわかってきたら、う~ん、母の訴える「心配、不安、怒り」は、私の「心配、不安、怒り」とは、ずいぶん「ちがうモノ」だともわかってきた。
すいません、私が勝手に「おんなじ感情」と誤解していた。
そして、母に関して「あらたにわかるコト」もあるが、そこで「はい、わかった、こういうコトでしょ」と、カンタンにおしまいにしないのも大事だなあ。