先日、妹とズームで話しているとき、妹が、ペットにしているオカメインコを見せてくれた。
それを見て、私も「かわいいな」と思った。
しかし、その「かわいさ」よりも、はるかに、
え? これ、毎日世話するの、むっちゃタイヘン!
という気もちのほうが、ずっと大きかった。
それは、YouTubeで、猫動画を見ているときも、たまに思う。
かわいいのはかわいいけど、飼い主だったら、そのペットの生活を、ある程度快適に保ってあげないといけない。
遊ばせたり、相手にもなってやらないといけない。
いやあ、それは、カンベンしてくれよぉ~
と、逃げ出したくなる。
よって、猫動画を「見ているだけ」が、いっちゃんラクチンなのだ。
猫や鳥はしんどいのに、どうして虫はOKなのか?
しかし、私が、小学3年生のときに飼っていた「おカイコさん」については、あれ? そんなことは思わなかった。
まあ、9才ぐらいじゃ、「アレとコレを比べると、アレのほうがタイヘンそう。だから、やめておこう」なんて、考えられないか。
ただただ「目の前にいる『おカイコ』がかわいい」だけ。
だから、「葉っぱをたっぷり食べさせてあげよう。容器もキレイにしておこう」と思う。
といっても、「おカイコの一生ぜんぶ」が、かわいいわけでもなくて、幼虫のとき、シャクシャク食べつづけて、コロコロ太っているときだけがかわいい。
繭を作る少し前から、身体が縮みだす。
もう、その時期から「コロコロ」じゃなくなるから、あんまりかわいいと思えない。
がっかりする。
まあ、相手が「昆虫」だから、そんな飼い主の気もちなんて、なにも関係ない。
おカイコは、「本能」にしたがって、プログラムどおりに、4回脱皮して、繭を作ってサナギになり、成虫に変態し、羽化する。
幼虫のとき、エサがじゅうぶんあれば、そりゃいいだろうが、なければないで、ジッとやり過ごす。
なんかさ、昆虫って、すごく「自立」しているんだねえ。
「エサが少ない」なんて文句も言わないし、「やる気ないから、脱皮せえへん」とかフテくされない。
淡々と、そのステージに応じた行動を、取るだけである。
うん、これほど「自立した生き物」を飼うのは、私には向いていたな。
もっとも難易度が高いのは「人間」
ところが、虫とちがって、私には「とてもむずかしい」のが、「人間」だった。
幼稚園のときも、小学生のときも、友だちはいなかった。
とくに、小学3年生ともなると、女の子なんて、オトナ並みの高度なコミュニケーションがデキるんじゃないか?
周りの女の子たちは、「オモテで言っているコト」と「そうではないホンネ」を、上手に使い分けていたようだ。
いまごろになってわかってきたが、「オトナの会話」というのは、「示し合わせたように、当たりさわりのない会話」がデキる……のかな?
たとえば、天気の話とか。
「また雨ですね」
「よく降りますね」
私は、そういうのが、さっぱりわからない。
どうやら「そういう文化がある」と見当はつくけど、それをマネして、自分でしゃべることができない。
しかし、小学3年ぐらいになると、そういう会話が、ちゃんとデキるみたいだ。
いや、YouTubeを見ていると、幼稚園以前の子どもでも、「ホンネじゃなくて、その場で共有できる『他愛ない話』」を、楽しそうにしゃべれる子がいる。
それはまあ、「ごく自然にそうしている」だけでもないか。
「なごやかな雰囲気になるように」、気を使って、そうしている子どももいるだろう。
けれども、私には、そういう「話しかた」というのが、ひじょうにむずかしかった。
うまくしゃべれない。
もともと、友だちの作りかたもわからない。
そうすると、結果的に、「おカイコ」をかわいがっているだけに、なってしまった。
むずかしい「世間」から、とうとう離脱する
まるまると肥え太った「おカイコ」に感動してから、ちょうど50年たったけど、いまも私は、ひとと接するのが、ひじょうに苦手だ。
あまりにもしんどくて、とうとう働くことも、やめてしまった。
妹には、よくこう言っている。
私はもう、世間から離脱することにしたよ。
私はまだ、自分にデキることがあると思って、がんばるつもり。
うん、T子ちゃんは、そうしたいんだから、がんばってね。
なぜ、ふつうのひとたちは、ちゃんと働くことがデキるのかな?
長いあいだ、そのことばかり考えてきた。
だから、「仕事」や「ライフワーク」がテーマの、心理学セミナーに通っていた。
なぜ、昆虫とはウマくやれたのか? 人間はダメなのか?
そしたら、そう、私はゆいいつ「おカイコ」とは、ウマくやれてたなあ、とわかった。
おカイコのためなら、がんばれたし、おカイコがまるまる太ってくれるのが、なによりのよろこびだった。
つまり、「昆虫」ぐらい「メカニカルに自立している相手」ならば、私は、なんとか対処できるのだ。
ところが、ほ乳類や鳥類ぐらい、「知能を持った複雑な相手」は、もうダメである。
相手が発する「膨大な情報」を、私は処理しきれない。
「そこ」にいる「その生き物」は、機械のように動いてくれない。
そんな生き物たちは、あきらかに「私のキャパ」を超えている。
それは、べつに、私が「悪い」わけでもなく、「ふつうより劣っている」のでもない。
私の「個性」なんだよね。
だから、これからは、「昆虫ぐらい、悠々と自立を果たしている生き物」が、私にとって無難だな。
さらに、「身辺のノイズ」を極力減らすこと。
それでなくても「メモリ不足」の脳ミソが、わぁーっとならないように、「モノを減らす」こと。
ああ、はい、「汚部屋片づけ」に、本格的に取り組もう。