自分のホンネをちゃんと認めてあげようねってこと。
でも、ものすごく長いあいだ、自分が「寂しさ」を抱えていることに気がつかなかった。
ホント、わからなかった。
ひとりで引きこもっていることも、ひとりがラクだからそうしているだけ、としか思えなかった。
ようやく自分の寂しさに気がついたのは、2年ほどまえのことで、カウンセラーN先生の「新刊発売記念講演会」に行ったときだった。(「感謝する姿は美しい」)
講演のすべてがとても感動的なもので、そして、そのいちばん最後でのお話のときに、ソレは急に「降って」きた。
ああ、私も寂しいんだな。
本当はヒトが大好きなのに、けれども拒絶されたくないから、傷つきたくないから、ヒトを避けているんだな。
▼今日、インベンション2番を練習しているとき、やっぱり急に「寂しさ」がこみ上げてきて、泣けてしょうがなかった。
▼あかんわ。バッハの短調はどうもあかん。インベンションの9番も、仕事中に思い出して気分悪くなってもうたし。
でもまあ、ピアノって泣いていても弾けますなあ。
歌はあかんと思うけど、ピアノはボロボロ泣きながらでもそのまま弾けるわ。
しばらく泣いていたらスッキリして、ハナかんで、ふたたび練習続行。
▼なんだけど、ベートーベンソナタ20番に移ったら、また涙が出てきた。
ベートーベンだからかね?
なんか泣けてしょうがない。
そういえば、亡くなった父ちゃんが認知症進んでワヤワヤになってたとき、私が「ベートーベン、聴く? また『田園』でええの?」って訊いたら、父ちゃんがいきなり泣き出したことがあった。大粒の涙をポロポロこぼしている。
「どしたん? だいじょうぶ? なにがどうしたん?」とあわてたら、父ちゃんは脳梗塞の後遺症で口がよう回らんのに、とぎれとぎれにこう言った。
「あのひとはかわいそうなひとや」
私は一瞬なんのことかわからんかったけど、すぐに、ああそうか、作曲家なのに耳が聞こえなくなったからやねとわかった。
父ちゃんは、若いころからベートーベンが大好きでしょっちゅうレコードをかけていたし、伝記とかもたくさん持っていた。
認知症になったらけっこう本性が出てくるんじゃないかと思うけど、父ちゃんは、ベートーベンがかわいそうやと言っては泣き、母の生い立ちが不幸なのを思って「あのコはかわいそうなコや」と言っては泣いていた。
子どもたちや妻には、わかりやすい愛情表現なんてまるでできないヒトだったけど、ホントはやさしいヒトだったんよね。
私、なんでピアノ弾くんだろ?ブログ書くんだろ?って考えると、いちばんの理由は「寂しいから」なんだけど、それに加えて、もしかすると父ちゃんの思いを引き継ぎたいからかもしれない。
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