捨てたら捨てただけ「解放」される
「1000個捨てチャレンジ」のおかげで、いままで累計1099個捨てられた。
ユルいルールだから、宅配ラベル1枚でも「1個」と数えている。
まあ、私はズボラだから、住所名まえが書いてある紙ゴミは、ついメンドーで放ったらかしにしていた。
捨てて「快感」が大きいのは、服とバッグ。
とくに「服」は、ハンガー掛けが18着になったので、気分としては、
これでもう、一生「服」に悩まされなくなった。
と、すごく開放感がある。
その「モノ」って、どんなメッセージを出しているか?
バッグは、4個残した。
そのうちのひとつも、たぶん捨てられそう。
キレいなんだが、小さめで中途半端なヤツ。
ソレ捨てたら、実質「スーパー買い物用リュック」と「エコバッグ」と「ピアノレッスン用バッグ」の3個だけになるかも。
「捨て」をつづけていると、「なにか少しでも不満があるモノ」が、かなりうっとうしく見えてくる。
「モノ」が、私に対して、ある種の妥協を迫ってくるかのようで、ウザッたいのだ。
「モノ」に、「ちょっと使いにくいけど、もっと使ってくれよう」なんて、上目遣いで媚びてほしくない。
なので、だんだん「モノが発するメッセージ」に敏感になってきた。
その「モノ」が、私に「とても好意的か? すごく協力してくれそうか?」という尺度で計るようになってきた。
それ、ほんとに、残り人生で使えるモノか?
まあ、なにせ、もうじき60才なので、まともに「モノを使う時間」もおよそ10年しかない。
その10年間に、どのぐらい必要か?ってことだね。
とくに、「生活に直接関係ないモノ」を、どのぐらい持っておくか?
たとえば、まだふんぎりのつかない本が、数十冊あるけど、それ、ほんまに読むの?
読むための時間を、どうやって捻出するの?
読んだら「かしこくなったり」「役に立ったり」しそうに期待しているけど、オツムはだいじょうぶなん?
と、具体的に考えてみたら、もう本は、1冊でいいかもしれない。
その残す1冊とは、読んでいない本ではなくて、これまでに何回もペラペラ参照している本だ。
↑この本、索引がないから、「ええと、アレはどこに書いてあったっけ?」と、その都度ページをめくって探さないといけない。
いつ買った?
ああ、2010年7月12日だ。48才のときだから、記憶がおとろえはじめたころだね。
やっぱり断片しか覚えていないので、いつも「アレはなんだっけ?」とめくっている。
1冊でもそんなんだから、ほかの本はもう処分しようかね。
ヒトによって「時間の長さ」は異なる
もともと「ふつうのキャパを備えているヒト」は、ふつうに「ああして、こうして、仕事も趣味も人付き合いも」と同時並行処理できるんだろう。
しかし、私は、あらゆることの処理が遅い。遅すぎる。
以前は、そのグズさ加減は「もっと努力すれば、もっと早くデキるようになる」と思っていた。
けれども、どこのパートでも、使いモノにならなかった。
18才から59才まで、どこで働いても「遅すぎる、おかしい」とあきれられてきた。
いまはもう、あまりにしんどいから、働くことも辞めてしまった。
無職になったら、ぶらぶらラクになるかと期待していたのに、まったくそうではなく、毎日忙しい。
ブログを書くのも、4~5時間かかる。どうかすると8時間以上かかったりする。
仕事がデキないのとおなじように、文章を書くことも、人並みにデキない。
シャワーを浴びることすら、むずかしすぎて、このごろは2時間半もかかる。
洗濯も難易度が高い。月に1度がやっとだ。
いろんなことがデキなくて、しんどくて、まるで「刑罰」のようになってしまう。
けれども、ここ最近ようやく、
それが、「私の標準の時間」なんだよね。
遅くも早くもない。
そう思えるようになってきた。
他人から押し付けられた時間割は、とてもしんどい
学校でも会社でも、「時間が決まっている」。
何時までに来いとか、何時までにコレやれ、アレやれとか。
もしかしたら、私はそういう「他人が決めた時間割」に、ものすごく縛られていたのかもしれない。
いまはすでに、学校も会社も関係ないのに、「まぼろしの時間割」に合わせようとがんばっていた。
いやあ、時間割は「自分」が決めていいのにねえ。
シャワーに3時間4時間かかっても、だれにも怒られない。
ちなみに、なぜ長時間かかるかというと、なんでもそうだが、「なにをしたらいいのか、わからなくなる空白時間」が、しょっちゅう挟まるからだ。
自分でもよくわからないが、なにもデキなくて、ぼーっと停止している時間がかなり多い。
他人が見ていても、私は、ほんとにぜんぜん動かずに停止しているらしい。
これは、トシを取るにつれて、ますます増えてきている。
しかし、ソレを「悪いコト」だとか「改善しないといけない」などとは、思わなくなってきた。
もう、ソレは「個性」だからね。
脳ミソが、そういう造りになってるんだよ、きっと。
自分でも、ぼーっと魂が抜けたみたいになっているのは、心地いいので、まあ、好きなだけぼーっとしていようと思う。
人生の時間割は、自分で決められる
モノを捨てたら、だんだんハッキリしてきたが、私は、ものすごく「少ない」ほうが、ラクに生きられそうだ。
持ち物をできるだけ少なくして、そのモノを使う時間をたっぷりゆったり取る。
ああ、そんなふうにしたら、ラクに生きられるかもしれない。
と、はじめてわかってきた。
本だって、1冊にしたら、ずいぶん気がラクになるよね。
ブログだって、やめたかったら、明日にでもやめたらいい。
しんどいことは、ぜんぶやめてかまわない。
残りはせいぜい10年。
24時間365日×10。
それをどう使うか?
そんなん、当たり前だけど、自分で決めたらいいだけだ。
いま現在、私にとって、もっともハードルが低いモノは、ピアノだけだね。
オクターブやめて、早く弾くのもやめたら、ピアノがいっちゃんラクチンなモノになったよ。