母ちゃんには、1日おきに電話している。
まだ積もる話がたくさんあるだろう。
なんせ「私が7年間ほったらかし」にしていたのだから、しばらくは隔日電話で罪滅ぼし。
でも、私がかけるたびに「ありがとう」「感謝してます」と繰り返し言ってくれるので、いやいや、申し訳ない。
父もそうだったけど、私がなんど裏切ろうと、逆恨みしようと、すべて「なかったこと」にしてくれた。
いまの母も、まったく同じで、私が過去、あんなにヒドい仕打ちをしたというのに、ほんと「なかったこと」にしてくれて、どうかすると私が甘えてしまいそうだ。
今夜も、母はとりとめのない話をしていたが、じつは「話しておきたいことがある」という。
え? なんだろう?
春ちゃんに、聞いてもらいたいことがあるの。
そう、どんなことかな?
私、むかしあちこちパートに行ったけど、
あそこの会社がいちばんよかったわ。
そんなことをよく思い出すの。
ああ、ホニャララって会社ね。
母は、ひとしきりその会社の思い出話をしていた。
そのホニャララ会社は、私が勤めていた会社と関係があり、私はひとりだけ知っている男性がいた。
知っているといっても、そのヒトはいわゆる「エラいさん」だったから、Yさんという名まえと顔しか知らない。
あの会社は、パートさんでも宴会に呼んでくれたのよ。
それでね、私、カラオケ歌わせてもらって。
歌い終わったあと、「ありがとうございました」って言ったの。
だって、みなさんに聞いてもらったからね。
ああ、そう、ちゃんとね。
そしたら、Yさんが……
わあ、Yさんの名まえ、よく覚えてるね!
Yさんがね、私にね。
「歌ったあと、ありがとうというひと、はじめてだ」
って言ってくれたの。
うんうん、わざわざね。
それでね、宴会で一度ね。
私の席が、Yさんのお隣だったの。
でも、Yさん、エラいひとだから畏れ多くて、
私、なるべく横にあいだを開けて座ってたの。
なるほど。
(私は内心、「ふふん、宴会の幹事さん、
エラいさんの隣はむずかしいから、
無難なパートさんを配置したんだな」と思った)
そしたら、Yさんが私に、
「そんなに離れて座って、
僕が隣だとイヤなの?」って言って。
ふふ。
それでね、春ちゃん。
あのね、私ね、
Yさんのこと、好きになったの。
え…………
ずーっと好きだったの。
片思いだったの。
それ、春ちゃんに聞いてもらいたくて。
ああ……そうなんだ。
うん……
すてきなお話をありがとうね。
わあ……母ちゃんが「話しておきたいこと」って、まさかそんな話だったなんてっ?!
母がその会社に勤めていたのは、母が50代前半だ。
ということは、いまから35年ほど前の出来事。
えーっ?!
89歳のいま、人生を振り返って、子どもに話しておきたいことが、「片思い」だったとは!
でも、母も「ひとりの女性」だったんだなあ。
母は自分のダンナ(私の父)が大嫌いだった。
しかし、いちど結婚してしまったら、当時は離婚するなんて思いもよらないことで、ただ忍従するだけ。
母がふと好意を寄せたのは、Yさんだけなんだろう。
たった2回だけの会話で満足している、はかなげな恋。
こんど、母に会ってゆっくり話ができる機会があったら、もう一度Yさんのことを聞きたいと思った。